ベートーベンの『第9』だから、合唱が入る。『第9』じゃなくて、『合唱』の愛称で親しまれている。『第9』は、交響楽団だけではない。合唱団も欠かせない。合唱団は、たとえば、第2楽章の終わりと第3楽章の始まりの間に入場してくる。静々と。結構な時間をかけて。人数が多いのだから、どうしても時間がかかる。「ああ、合唱団が入ってきた。いよいよ『合唱』だ」と、聴き手は感じる。それだけで、胸が熱くなる。合唱団の入場にちょっと時間がかかろうが、気になんかならない。
その合唱団が、今日はいない。
今日も、『第9』だ。だけど、『合唱』ではない。『交響曲 第9番ニ短調 リスト編2台ピアノ版』だ。
『第9』の合唱団は、普通は舞台の背後にいる。舞台の前面には、ソプラノ、アルト、テノール、バリトンの4人だ。その4人も、今日は登場しない。『2台ピアノ版』なのだから当たり前のことだが、交響楽団もいない。ピアノが2台。それだけ、だ。
指揮者は? 出てくるのかな。
袖から、出てきた。違う。指揮者ではない。ピアノ奏者が2人。梅田智也と末永匡だ。そのまま、2台のピアノに歩み寄る。
ちょっと待った。まだ指揮者が登場していないよ。と思う間もなく、『第9』の第1楽章が始まる。そうか、今日は指揮者もいないのか。
『第9』は交響曲だ。交響楽団のための音楽だ。それなのに、いつの間にか、ピアノ2台による『第9』に違和感がなくなる。交響楽団のための音楽であろうとなかろうと、どうでもよくなる。むしろ、2台のためにベートーベンは書いたのに違いない。そう思えてくる。編曲者、フランツ・リストの仕掛けた罠に、いや技巧に、すでにとらわれてしまっている。リストだけではない、梅田智也と末永匡の熱演の虜だ。
会場は、所沢市民文化センター ミューズ アークホール(大ホール)。1階の1106席、2階の560席 に対して、今日の観客数は700。もちろんコロナ対策だけど、聴く側からすれば、かえってゆったりとした空間を味わうことができる。12時45分の開場予定時刻には既に観客が詰めかけていた。早め早めに入場が行われ、いわゆる「3密」状態は周到に避けられた。
13時30分の開演。梅田智也と末永匡、それぞれ1曲ずつの小曲、それから、『第9』の第1楽章、第2楽章、第3楽章。ここまでは、いい。
第4楽章だ。
ここからは「合唱」が入る。合唱団は今日、いない。4人のソリストも、いない。どうする?
いよいよ、バリトンが独り歌い出すときだ。そうだ、歌い出す。歌い出すのは、ピアノだ。ピアノが歌う。人の声のように、バリトンのように、歌う。「おお友よ、このような音ではない!」ピアノなのに、バリトンが、歌っている。4人のソリストの声を、ピアノが歌う。合唱団が歌う。2台のピアノなのに、歌う。舞台の後ろ側に合唱団がいるかのように、2台のピアノが歌うのだ。
交響楽団と合唱団だから可能な『第9』。コロナ禍の下だから困難な大編成の『第9』。私たちは、コロナ禍の下、不自由さの中の自由を知った。受動的に知ったのではなく、積極的に勝ち取った。少なくとも、この日、2022年1月30日につどった人々は、2台のピアノですらできる、2台だからこそできる、歓喜の世界を共有したのだ。
◆ なんて、ちょっと偉そうに。会場のアークホールの後片付けの最中、感じたことを書いてみました。ありがたや~。
文責:淺野 昌規(S60文)
写真:岡田 充(S42商)
志賀 隆(S51法)
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