雲一つない紺碧に輝く空の下、令和7年最初の歴史研究会として明治神宮初詣と新年会を会員9名にて開催しました事を報告します。
報告にあたり、神宮神社をお詣りする時、ご祭神からご利益を賜る為の正式なお詣り方法、言い換えれば神様へのマナーをおさらいしながら進めます。ご参考になれば幸いです。ちなみに「お参り(おまいり)」はお寺やお墓で仏様に念ずることで、「お詣り(おまいり)」は神宮神社で神様に願いを捧げることで、明確に異なります。付け加えますと、「参拝(さんぱい)」は神社・寺を訪れて神仏を拝む事で、「参詣(さんけい)」は寺や神社をただ単に訪れるだけで祈り拝むことは含まれていません。
初めに、服装はカジュアルすぎる服、アニマル柄や毛皮、露出度の高い服、帽子は避けた方が無難です。これは寺社仏閣のみならず教会やモスクなど世界中の大半の宗教施設に共通するマナーです。欧州の教会内で日本人観光客が帽子を取るよう注意を受けている姿が散見されます。またアジアや中東の宗教施設で欧米の女性がショートパンツやミニスカートで拝観するのを断られる姿も散見されます。
所沢から地下鉄副都心線で乗り換え不要にて明治神宮前駅まで直行し、改札に集合しました。表参道を、神様と自分の立場を意識し、敬意をもって中央を避け左側を歩みます。なぜかというと、日本では古来より左側が上位に位置しますので、右大臣より左大臣の方が上位になるという理屈です。色々な説が背景にありますが、ご祭神や天子は北を背に南に向かって着席するので、左手からお日様が上がり右手に沈む事になるので、左側を上位にしたというのが代表的な説です。よって神様から見て左側は神様に向かって歩む我々には右側になるので、敬意を表して一番下座となる左側を歩きます。
木造の明神鳥居の左側手前で帽子を脱いでカバンに仕舞い込み、お辞儀して、中央から一番遠い左足から一歩踏み込み鳥居という結界をくぐり、明治神宮の神聖な聖地に入ります。結界内部の聖地では、ご祭神の明治天皇と昭憲皇太后が常に見守っていますので、本来は結界内のどこで拝んでもご祭神に届くのです。一方で悪さをするとバチが当たると云われています。
ここで鳥居について一つ疑問が生じました。本来、天皇家につながる天津神系の伊勢神宮や熱田神宮や所沢神明社を筆頭とする日本中に5千社近くある神宮や神明社や天祖神社の鳥居は“神明系鳥居”です。そして八幡系神社、稲荷系神社、熊野系神社、氷川系神社等、その他15万社に上る国津神系の大社や神社こそが“明神系鳥居”なのです。ところがなぜか明治以降に造営された平安神宮と明治神宮だけが国津神系の大社や神社と同じ“明神系鳥居”なのです。同じく明治以降に造営された天津神系の北海道神宮は“神明系鳥居”とルール通りで、逆に国津神系の靖国神社は“神明系鳥居”です。とても不思議ですが理由は不明です。

南参道を進むと右側に全国から献納された日本酒の菰樽(こもだる)という空容器が並べられています。そして明治天皇はワインを好んで飲まれていたため、左側には神宮神社には珍しくフランスのブルゴーニュ地方からワイン樽が奉納されています。たぶんシャルドネがお好きだったのではと推測します。ワイン樽の中に著名なロマネコンティやアルベールビショーもあり驚きました。ちなみに明治時代から現在に至るまで宮中晩餐会で振舞われるワインはシャンパーニュ地方のシャンパンから始まり、ブルゴーニュの白ワイン、そしてボルドーの赤ワインと決まっているそうです。
さらに進み、左へほぼ直角に曲がると巨大な木造としては日本一の“明神系大鳥居”があります。一代目の大鳥居は明治神宮の創建と同時に造られましたが、1966年(昭和41年)の落雷により破損してしまいました。建て直そうとしましたが、日本には十分な大きさの檜がなく、台湾で発見された樹齢1500年を超える大木を現地の人々の協力のもと日本まで運搬し、二代目の大鳥居として1975年(昭和50年)に造営完成しました。
再びお辞儀して大鳥居の左側をくぐり、本殿までの参道を右に直角に曲がる「曲がり角」まできました。あまり知られていませんが、ここは縁起の良いスポットです。この「曲がり角」は「枡形」とよばれ、一見直角の90度のようですが、実は88度に設定されています。「8=八」は末広がりで縁起が良いことから、隠れたパワースポットになっています。
なぜ90度ではないのかというもう一つの説として、「不完全のままにする」という日本古来の建築様式に準じているのだそうです。それは、日本に古くからある「未完の美」という独特の感性によるものだと考えられています。鎌倉時代に兼好法師が書いた徒然草の中でも「何事においても完璧に整っているものはよくない。やり残しがあった方が味わい深く、廃れずに残っていくものなのだ。」と記しています。つまり完全なものは決して良くはないと唱えられ、「内裏を造る時も、必ず1か所は造り残しをする」と書かれています。
また、日本人の完成させない美学が転じ、「建物は完成と同時に崩壊が始まる」という言い伝えも生まれました。「未完の美」の白眉は日光東照宮陽明門の逆柱です。東照宮の宮大工は、この言い伝えを逆手にとり、あえて柱を逆さにして本来の完璧な状態ではない形にすることで災いをさけるという、いわば魔除けのためと云われております。これが逆柱の背景と伝えられており、「建物を完成させなければ永久に崩壊はしない」という、手掛けた建物の長寿を願ってのお守りのようなものだそうです。
京都市東山区の知恩院御影堂の屋根にはわざと屋根に瓦が4枚置きざりになっていたり、東京都の目黒雅叙園の百段階段は99段しか作られなかったり、あえて不完全なもののまま留められている建築物は日本各地に多数あります。他にも、満月でなく三日月や欠けた月を面白がった清少納言の「枕草子」や、不完全さをよしとする茶道のパイオニア千利休が唱えた「わびさび」など、完璧ではないもの、少し欠けているものを、日本人は昔から好んできました。最近イチロー氏がアメリカのメジャーリーグの野球殿堂入りを99.75%の投票率、つまり全米記者400名のうちたった1人だけNOといったのが話題となりました。ベーブルースでさえ95%だからイチローの方が上回っているので見事なのです。これもイチロー氏曰く「未完の美」なのです。
もう一つ、参道のある神社はほとんど鳥居の正面に本殿はありません。なぜかというと大半の参道は直線ではないからです。鳥居からご祭神のおわす本殿が直接見られないように配慮されているのでしょう。
ほぼ直角に曲がった道を行き正参道から南神門を抜けた先に手水鉢があります。コロナ前は柄杓があったのですが、今はないので、直接手で禊をします。先ず両手を流れるお水で洗います。次に両手の掌でお水をすくい、口を濯ぎます。最後に両手を洗い流します。これで心身ともに禊が終わり神様に向き合えます。
手水鉢の先に広々とした石畳に本殿が佇んでいます。1920年(大正9年)に造営された社殿は1945年(昭和20年)の東京大空襲により大半を焼失しました。戦後、国内外から復興資金が集められ、1958年(昭和33年)に再建を果たして現在に至っております。
神社建築の様式で最も一般的とされる広がりのある反った屋根が特徴の流造のうち、正面の柱が4本、柱間の間口が3間ある三間社流造(さんげんしゃながれづくり)の本殿に進み、姿勢を正しご祭神の明治天皇と昭憲皇太后に拝します。明治神宮にはありませんでしたが、鈴がある場合には先に鈴を鳴らします。鈴を鳴らすのはお詣りする人を祓い清めるという意味合いがあります。次にお賽銭を入れます。お賽銭は縁起を担ぎ、5円(ご縁)、5円玉2個(重ね重ねのご縁)、25円(二重のご縁)、5円玉9枚(始終ご縁)が一般的です。一方、10円玉(遠縁)、500円玉(これ以上硬貨=効果がない)とみなされるという説もあります。そして腰を直角に折り二回深いお辞儀をし、胸の高さで二回拍手をします。次に一番肝心な事、つまり自分自身の住所と名前をお告げし旧年の報告と感謝を申した上で、新たなお願い事と祈りを捧げます。最後に一回深くお辞儀して終わります。これがお詣り基本形の二礼二拍手一礼です。そして本殿を背にみんなで写真を撮りました。
御朱印をいただこうと長殿(ながどの)を見たら大変な行列ができていたので断念して、本殿の南側に広がる御苑に参り、維持協力金五百円を支払い入苑しました。御苑は江戸時代初期には肥後加藤家の下屋敷があり、その後井伊家の下屋敷となりました。明治時代に宮内省の所管となり南豊島御料地と呼ばれ、明治天皇が昭憲皇太后のための遊歩庭園として明治36年頃に整備されました。明治神宮の鎮座地が代々木に決定されたのは、この御苑が大きな理由のひとつと云われています。ご休憩所の隔雲亭(かくうんてい)や南池(なんち)を巡回し、都内有数のパワースポットと云われる「清正の井戸」に行きました。この井戸は加藤清正が掘ったと伝えられ、東京の真ん中には珍しい純粋な湧水で毎分平均60リットルの水がこんこんと湧き、渋谷川の源流になっています。都内有数の名湧水と云われ、井戸の写真を携帯電話の待ち受け画面にすると運気があがると一時話題になりました。
清正の井戸からの帰り道に南池のほとりにある東屋に外人の親子が休んでいました。話しかけたらオーストラリアから来たクリスさんという観光客一家で旅の話しを色々としてくれました。しかし途中から政治談議になり、元々オーストラリアは中国贔屓でしたが、今は180度変わったという事で、特に日本と固く連携していかなければならないという事で意見が一致しました。
御苑を退出し、“明神大鳥居”を再びくぐり拝礼して明治神宮ミュージアムに向かい入場料1,000円支払い入館しました。宝物展示室ではイタリア人のエドアルド・キヨッソーネが描いた有名な明治天皇・昭憲皇太后の御尊影や、金色の鳳凰の彫刻を頂く英国製国儀車「六頭曳儀装車」など御宝物を見学しました。
ミュージアムを一通り楽しんだ後、神宮の杜の豊かな営みを感じながら北参道を散策して代々木方面へ向かいました。まさに大都会東京の真ん中で、まるで杜の中にいるような雰囲気を味わえます。ちなみに「森」は樹木が生い茂った場所で、「杜」は神社仏閣の地にある樹木の生い茂った神秘的な場所、と使い分けています。本殿を囲うように神域に広がる鬱蒼とした木々に囲まれた約70万平方メートルの豊かな杜は、もともとあったわけではなく荒野だった土地に造られた人工の杜です。自然に新旧の更新を続ける「永遠の杜」を理想として造るという壮大な計画が1915年(大正4年)に始動し、全国から献上された約10万本の樹木がのべ11万人もの青年団により植えられたとの事です。以来、約100年の歳月が経つ現在、綿密に計算された植林により自然がサイクルされて成長を続け、動植物の宝庫となっており、約3000種の動植物が生息し、清々しい空気の中、鳥のさえずりや風が葉を揺らす音だけが聞こえます。北参道鳥居をくぐりお詣りの御礼のお辞儀をして聖地を離れます。
最後に、今まで記載しましたお詣りの手筈は筆者が京都駐在時代に平安神宮の九条宮司(当時)及び建仁寺の鎮守である恵比寿神社の中川宮司からご教授いただいた作法です。
そしてとうとう待ちに待った新年飲み会です。「よよぎ庵」という居酒屋にて美味しい肴や珍味をたらふくいただき、全国の美味しい日本酒を次から次へと堪能し、楽しい代々木の夜は更けていきました。
以上
文責:伊藤芳康(S51経)
写真:南 博幸(S51法)
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