歴史研究会3月例会 荻窪の洋館&三庭園巡り視察例会
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弥生の素晴らしい青空が我々を迎えてくれました。しかしながら、まだまだ肌寒さを感じる朝9時の所沢駅に11名が集い、荻窪に向かって出発しました。
荻窪駅の北方面は筆者が生まれ育った場所で、そもそも戦時中に祖父母が本籍地の青山から天沼村に疎開してきたのです。そして青山が空襲で焼け野原化したために、そのまま住み着きました。だから幼いころは家の周りの畑や原っぱが遊び場でした。原っぱには防空壕もあったのです。
一方で、荻窪駅の南方面は大正から明治にかけて、「西の鎌倉、東の荻窪」と称される別荘地で、与謝野晶子・与謝野鉄幹が居を構え、さらに公爵で内閣総理大臣(第34・38・39代)の近衛文麿の邸宅である「荻外荘(てきがいそう)」がありました。閑静な住宅地として評価が高まり、井伏鱒二(作家)、太宰治(作家)、棟方志功(版画家)、阿部知二(作家)、戸川秋骨(学者)、石井桃子(作家)、恩地孝四郎(版画家)、尾崎喜八(詩人)、長谷川四郎(作家)、大田黒元雄(音楽評論家)、佐藤慶次郎(作曲家)、遠藤実(作曲家)、柴田翔(作家)、三宅榛名(作曲家)など多くの文化人が移住してきて私邸を構えるようになりました。
その歴史と文化は今でも邸宅が並ぶ住宅街に息づいており、このたびはその中で杉並区の施設として一般公開されている近衛文麿の「荻外荘」と角川書店創始者である角川源義の邸宅跡の角川庭園「幻戯山房」、そして大田黒元雄の屋敷跡地である「大田黒公園」を視察しました。
荻窪駅南口から数名はEV仕様コミュニティバスにて、残りは徒歩にて、まずは「荻外荘」に向かいました。本洋館は、1927年(昭和2年)に東京帝大医学部教授で大正天皇の侍医頭を務めた入澤達吉が義弟の建築家の伊東忠太の設計により本宅として建て「楓荻荘(ふうてきそう)」と命名しました。
入澤が主治医をしていた政治家・近衞文麿は「楓荻荘」が特異な趣を持っていることに感じ入り、田園風景や松林といった自然豊かな環境をとても気に入りました。そして近衛は「楓荻荘」を1937(昭和12)年に入澤より譲り受け、療養を兼ねる目的で喧騒を避けるために都心から移り住みました。健康を取り戻した近衛の回復を祝い、後見人であり当時90歳になっていた元老の西園寺公望が本宅を「荻外荘」と命名し、その名を記した書を贈りました。近衛はその書を扁額に仕立て、玄関に飾りました。
近衛文麿は貴族院議長を経て1937年(昭和12年)、45歳で第34代内閣総理大臣に史上2番目の若さで就任しました。因みに1番若かったのは伊藤博文で総理には44歳で就任しています。1945年(昭和20年)12月6日、GHQは日本政府に対し近衛を逮捕するよう命令を発出しました。第四次逮捕者9名中の1人です。A級戦犯として起訴され極東国際軍事裁判にかけられる可能性が高くなり、近衞は巣鴨拘置所に出頭を命じられた最終期限日の同年12月16日未明に、荻外荘の書斎にて青酸カリを服毒して自殺しました。54歳2か月での死去は、日本の総理大臣経験者では最も若い没年齢であり、また総理大臣経験者として、死因が自殺である人物も近衞が唯一です。
ここで歴史研究会にちなんで近衛家とはどういう家柄かについて記します。近衛家は、藤原四家の一つである藤原北家嫡流であり、公家の五摂家筆頭で、華族筆頭の公爵家です。藤原四家は、中臣鎌足息子である藤原不比等の四人の息子が興した藤原氏の四つの家の総称です。
l 藤原南家 藤原武智麻呂(680年~737年)
弟房前の邸宅に対し南に位置したことに由来
l 藤原北家 藤原房前(681年~737年)
兄の武智麻呂の邸宅よりも北に位置したことに由来
l 藤原式家 藤原宇合(694年~737年)
宇合が式部卿を兼ねたことに由来
l 藤原京家 藤原麻呂(695年~737年)
麻呂が左京大夫を兼ねたことに由来
北家嫡流が摂関政治を確立し、道長・頼通父子の時代に全盛を極め、同家の優位を確固たるものにしました。以後、北家嫡流=藤氏長者=摂政関白、という図式を決定づけることになりました。北家嫡流は鎌倉時代中期に近衛家・一条家・九条家・鷹司家・二条家の5つの家に分かれましたので、五摂家といわれるようになりました。以降江戸時代までの公家社会や明治時代から第二次世界大戦敗戦までの華族社会における最高の家格でした。五摂家の中で近衛家は筆頭であり、人臣で最も天皇に近い地位にある家とされました。尚、近衛文麿の後見人である西園寺公望の西園寺家は藤原北家支流です。閑話休題。
2016年(平成28年)に「荻外荘」が日本政治史上重要な場所として、国の史跡に指定されました。杉並区は「荻外荘」を近衛文麿居住当時の姿に復元整備することを決めました。そのために復元予算10億円ほどを確保し、1960年(昭和35年)に屋敷の一部が豊島区内にある天理教施設に売却移転されていたのを買い戻し、復元に尽力しました。そして、2024年(令和4年)12月から区立公園「荻外荘」として一般公開するようになりました。
入館料300円を支払い玄関内に入ると正面上部に西園寺公望の筆跡による「荻外荘」の扁額が掛けられていました。靴を脱いで進むと現れる応接室は中国風の趣のある螺鈿細工のテーブルセットが再現されています。そして天井から3つの龍の絵図が見下ろしております。昭和初期に建設されたのに、なぜ描かれている龍の指が3本しかないのかという疑問を持ちました。中華思想のもとでは5本指の龍は皇帝のシンボルなので本来使用不可です。そして、4本指の龍を描くことが許されているのは中国王朝が特別に許可した国に限定されます。筆者が認識している許可された国は朝鮮王朝です。日本はさらに外枠に位置する遠い野蛮な国に分類されてきましたので、明治以前に描かれた日本の禅寺で頻繁にみられる龍はすべて3本指です。だからその世界観から脱しきれずにいる韓国も北朝鮮もいまだに優越感を持って日本を見下そうと努めているのです。しかしながら中華思想が払しょくされた日清戦争勝利後、日本中で5本指の龍が描かれ始めました。この話しは京都嵐山天竜寺の管長から法堂にて1997年(平成9年)に描かれた加山又造画伯の5本指の巨大な龍の天井図を見せていただいた時にお聞きしたものです。だから昭和初期に建立された本建物天井図の龍が三本しか指がないのを疑問視していましたが、描いたのが上海出身の中国人書画家である王一定だったということで納得しました。同様の龍が敷瓦にも描かれておりましたが、どういうわけか伊万里風の花瓶には4本指の龍が描かれておりました。もしかして朝鮮半島製なのかもしれませんが、不明です。


続いてオリエント風の壁紙で飾られた客間が現れます。第二次近衞内閣組閣時の1940(昭和15)年7月19日、日中戦争が長期化する中で戦争路線の方針を決める「荻窪会談」がここで行われました。日中戦争が長期化・大規模化する中、ドイツ軍の電撃戦の成功によって、ドイツはベルギーやフランスを席巻して降伏させたことで日本の軍部支配層には南進の野望が大きくなったという時代背景があります。出席者は消極論者の近衛文麿総理と自らが選んだ松岡洋右外相、そして陸海軍が推した積極論者の吉田善吾海相と東條英機陸相の4名でした。そこで吉田と東条に主導権を握られる形で戦争路線の方針、中でも日独伊枢軸の強化、日ソ不可侵協定の締結、英・仏・蘭・葡の植民地を東亜新秩序に包含せしめるための積極的処理の実施等が決定されました。

客間の隣がダイニングルーム(食堂)です。来客をもてなす大きなテーブルと多くのいすが置かれていました。そこで「荻外荘」の概要を説明するビデオが流れていました。食器棚には大蔵陶器の立派なダイニングセットが飾られておりました。
続いて、その隣は近衛文麿が自決した書斎です。近衛文麿自決後、吉田茂外相が一時期荻外荘に居住しており、この書斎をベッドルームにしていたそうです。尚、近衛の出頭について吉田が近衛の自殺の直前にマッカーサーとの面会で「近衛は自宅監察とする」との見通しを聞いており、また病気を理由に出頭を延期できる見込みもあったというのです。吉田は近衛のまさかの自殺を知り、「自分が近衛に会って伝えていたら」と悔やんでいたとのとことです。

「荻外荘」の道を挟んで反対側に木材をふんだんに使用した特徴的な建造物があり、そこが荻窪三庭園を紹介する無料施設でやはり隈研吾が設計した建物でした。ここで若干時間をつぶした後、待ちに待ったランチです。「玉川」というお蕎麦屋さんでビールやお酒を飲みながらおそばやうどんや丼もので腹を満たし、一時の安らぎを堪能しました。

食後、少し歩くと「角川庭園」です。同庭園は角川書店の創業者で俳人だった角川源義(1917~1975年)の邸宅「幻戯山房」を寄贈された杉並区が整備して、2009年(平成21年)から応接間兼書斎だった部屋を展示室として無料一般公開しています。1955年建造の「幻戯山房」は俳句仲間でもあった建築家の加倉井昭夫(1909-1988)が設計した近代数寄屋建築で、2009年に国の登録有形文化財として登録されました。付随する展示室、詩歌室、茶室として一般に貸し出されています。また、建物の南側にある庭園は、400本ほどの樹木と四季折々に楽しめる草花を角川が俳句のための植えたといわれています。しかし、残念ながら他との比較論として印象の薄い感じを受けたのは筆者だけだったでしょうか。

最後に訪れたのは「太田黒公園」です。同公園は日本で初めて音楽評論という分野を確立した太田黒元雄(1893~1979年)の屋敷跡で、杉並区が買収して回遊式日本庭園として整備し、1981年(昭和56年)に無料で開園しました。太田黒は県立小田原中学校(現·小田原高等学校)を卒業後、東京音楽学校(現·東京藝術大学)にてピアノをハンカ・シェルデルップ・ペツォルトに師事します。1912年(大正元年)にロンドン大学に留学するも、1914年(大正3年)に第一世界大戦開戦のため帰国を余儀なくされます。その後執筆活動を開始し、日本では知られていない作曲家を多く紹介しました。ドビュッシーやストラヴィンスキーは大田黒が日本で初めて紹介したとされています。1918年(大正7年)に声楽家の広田ちづゑ(生没年不詳)と結婚しました。音楽評論に関する多くの書籍を上梓しています。

敷地内にある西洋風建築物である記念館「旧大田黒家住宅洋館」は、1933年に大田黒が仕事部屋として建てたもので、国の登録有形文化財(建造物)として2016年に登録され、現在公開しています。内部には蔵書や写真が展示されており、大田黒がロンドンから運んで愛用していたと言われている1900年製のスタインウェイ製のグランド・ピアノが今も置かれています。年に数回のコンサートではその音色を楽しめるそうです。
園内には樹齢100年を超える大イチョウの並木やケヤキや紅葉が生い茂り、紅葉の時期はさぞ見事でしょう。茶室・休憩所の裏からの水の流れはゆるやかに木立のなかを流れ、敷地の南側にある池に注がれています。池では錦鯉が泳いており、鴨や白鷺もみられます。11月下旬の紅葉真っ盛りに時期には園内が見事にライトアップされ、以前TV中継もされました。
これで視察は終了となり、時間は15時頃、太田黒公園の前からEV仕様コミュニティバスにて数名が乗り込み、他は徒歩にて荻窪駅まで行きました。駅にて解散という運びとなり、各自帰途につきました。
文責:伊藤芳康(S51経)
写真:南 博幸(S51法)




















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