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ブタペスト紀行 -(2)ブタペスト再訪-


1.ブタペスト再訪

ローマオリンピック日本水泳選手団 山本健

2016年ブラジルリオデジャネイロ水球競技大会は世界各地域の予選を勝ち抜いた代表

16チームが集まる。アジア地区予選はその前中国仏山市で行はれ、日本チームは健闘し36年ぶりの優勝を飾り、見事五輪への切符を手に入れた。間近でそれを観戦したこともあり、日本チームの活躍を見ることを楽しみにしていたが、残念ながら現地治安の悪化が障害となり断念した。しかし水球競技においてのさらなる実力が問われる世界選手権が

翌2017年にブタペストで行はれるとのことでこれを目ざした観戦日程をたてた。

 63年前のハンガリー動乱から自由世界側に復帰したブタペストを市民生活などを含めぜひこの目で見たいとの思いと世界水球での日本の活躍への期待も重なり洋行を決意した。

 2017年は年明けを過ぎて早々の準備となった。まず選手権試合スケジュールが決定する前に、飛行機と宿舎の予約がある。すべて個人レベルでPCによるネット経由で手配する。選手団と違いすべて単独行動なので、慎重なチェックを重ねなければならず、多くの日数を費やす。加えて雑誌社への観戦記記述もあり、チャットワークを使ってのオンライン記載練習や現地ハンガリー語の修練にも励むこととなる。また塾OBで国際審判員の先輩からの世話で役員ゲストのIDが取得でき、全試合観戦のめども立ったのは幸運であった。オリンピックより参加国が多く試合数も当然多くなり男女交代での日程も2週間以上となった。したがって宿泊は長期滞在に備え安価なビジネスホテルで質素に観戦生活をするよう計画した。

 往路成田発でポーランドワルシャワ空港での乗り換えで最初の難関があった。トランジットの時間は一時間あり十分でと思っていたのも拘わらず通路を進むと黒山の人だかりがあり、それは旧共産社会特有の入念に時間をかける税関で、まさか乗り換えで遭遇するとは思はなかったものであった。少々の飛行機の遅れを意にかけず、のんびりトイレへ行っていたこともあり、その時点ですでに次の飛行機の呼び出し時間を過ぎていた.仕方なく通りがかりのオランダ航空パイロットに頼み、その背中について乗務員入口を通してもらい、駆け足でハンガリー機受付に滑り込んだ。その乗換機は双発のプロペラ機で乗員も100名ぐらいが狭い座席に詰め込まれる状況で、ギシギシときしむ音を発しながら重そうに離陸する機体は、まさにローカルな雰囲気と少々の不安を観念させるものであった。それでも定刻に到着したブタペスト国際空港は日本でいえばローカルな地方空港の規模であり、ホテルシャトルバスは客2~3組しか乗れない普通のワンボックスカーであった。当然のように30分ほど待たされたのち不定期に出発したバス(?)は夕暮れの落日の迫る荒涼とした農地と工場の混在する地域を順調に走ってホテルに到着した。ところが連続した石塀に守られたホテルは一見しただけでは建物も看板も見えず、わずかに一人のガードマンがくぐり戸のような小さな入口を守るように立っていた。治安対策に厳重な様子が、この安全対策でもうかがい知れた。試合時間の切迫もありすぐ部屋で着かえタクシーで会場に向かう。

 ドナウ川の中州にある長大な紡錘形をしたマルギツト島を占める公園は全長2.5キロにわたり多くのスポーツ施設を持つ巨大な庭園である。両端を入り口としてそれぞれの橋があるが。その片方が戦車で守られた車両通行止め、歩行者専用のものであつたため、逆方向の入り口でタクシーから一般バスに乗り換え、さらに右側通行を勘違いして反対方向へ走ったりして、結局2キロほど歩く羽目となった。遅い日暮れがやっと始まる夜8時過ぎに、延20時間を費やした旅が終わり、試合会場に到着できた。

 薄暮の空に向かい、高く階段状に作られた仮設観覧席が三方向から囲むプールは明るい透明なブルーな水をたたえ、浮かんだコースロープや浮きゴールとともに、照明を反射しながら満員の観客の熱気と熱い視線を受け止めていた。折しも地元ハンガリーチームが優勝の期待を持たれつつその第一戦、オーストラリアとの試合終盤であり、優勢な自国選手への応援が激しく公園の木々を揺らしていた。この後、つづけて行はれた日本対ロシアの試合は前試合から居続けた大勢のハンガリー市民の前で行はれ、例の動乱や積年の圧政から続く因縁を思わせるような日本贔屓の大歓声が後押しする雰囲気で行はれた。試合中ロシアの荒っぽい反則技にブーイングし、日本の得点にはグーサインをしてくれた。自分しか日本人はいなかったので、観戦記事を書きながら返礼するのもかなり忙しい思いをした。しかし前試合から、エースが出場停止とされていた日本チームは、前回の大会で勝利したこのソ連チームに思わぬ苦戦をすることとなった。作戦がエース不在のまま同じように立てられ、敵の思うようにボールコースを見極められたため,パスカットによる敵ボール保持の機会が多くなり、それはシュート数の差となって現れた。大舞台での緊張と気負いが単純なミスシュートを呼び、劣勢からの無理なデイフェンスから退水も重なり、大観衆の声援を無にする敗戦となった。スコアは7~15であったが、十分勝てる試合であったと思う。周りの見知らぬハンガリー市民が肩をたたき口々に「グッドゲーム」と言ってくれたのが僅かな慰めであった。大男のソ連チームに果敢に戦った日本メンバーを讃えてくれたことは嬉しかったが、多分にソ連嫌悪の気持ちが混ざっていることもうかがえた。

 ハンガリー市民の乗用語はハンガリー語であり、短い単語を羅列すると我々の発音でも

通じやすく,挨拶や簡単な買い物などは理解してもらえる。しかし少し長い話になるとやはり英語が主体となり、もともと第2外国語はドイツ語が浸透した国だけあって、なかなか意志が通じにくい。それでも言いたいことはしつこく何回も言うことで、電車の乗り換えや日常の買い物、また競技場での一般市民との会話などを楽しむことができた。市内に入って一番関心のあったことは、動乱後この地に試合に来てからすでに半世紀を超え、この国、このブタペストの自由社会へ復帰した経過や結果であり、目で見て確かめることができれば幸いであると思っていた。日本が原爆や大空襲で木端微塵にされてから70年、その十数年後、世界平和の時代にも拘わらず、国民が単に自由を求めるだけで世界中の国の注視の中、ソ連の戦車軍に建物のみならず多くの市民まで破壊殺戮されたこの国の首都は今どんなたたずまいの中で住民が生活しているのだろう。興味は深く、他の諸国への観光旅行などをさておいても長年の間,再訪、滞在したい国であった。

 一日中ホテルの前にいるジャージー姿の大きなガードマンは腰にじゃらじゃらたくさんのカギをつけ、客の出入りごとに石壁の中の小さなくぐり戸を開けてくれた。この男は滞在中、毎日深夜12時過ぎまでそこで張り番をしてくれていた。警戒厳重なさまは信じがたい街の治安状況を示していた。また厚い石壁は建物を守る城壁にも似て、まさに騒乱時にも外敵から建物や生活を守る盾となるよう造られていた。ホテル前のルイーザ広場ではアーケード上の屋根のある歩道にたくさんの人が群れ、歩く傍らにある小レストランの椅子テーブルで飲食を楽しみ、中央大通り真ん中を悠然と走る明るい模様に彩られた4両連結のトラムという市電が街の動きを表現するかのようで、ゆったりとした落ち着きのある街路を表現していた。また日本での下町風景のように道路上の立ち話のグループ、買い物の主婦、屋台での飲み客、時には地下鉄階段隅にいるジプシー風の乞食もいて、庶民的な風情があふれていた。商店はすべてくすんだ灰色のビルに引きこもるように位置して居てそれぞれが独立しつつも100メートルほどつながっていた。その壁には数十メートルごとにATMの自動支払機が目の高さに宙づけになっていて、主にクレジット払い出しに使われていた。最高払出し額6万フロント(約3万円)と書いてあるこの機械の利用と庶民の生活が結びついて利用され、生活が成り立っているようであった。あまり銀行を見かけないので、我々旅行者や国境が近く頻繁に出入りする近隣国の人々には、いちいち通貨交換の手間のいらないクレジット機械は通貨決済を自国で行えるので簡単であり、自分も滞在中便利に使わせてもらえた。地下鉄、バス、トローリー、トラムなどの交通機関は、フリーパス制度が浸透していて、改札もなく利用しやすくなっている。地域も市内で細かく発達しているので、タクシーなど使わず市内はほとんど移動できる。道路事情がよく車渋滞は通勤時間でもほとんど見かけない。道路中央を走るトラムはゆったりとした流れで運転され,車内は明るく、和やかである。まどの外は繁華街から続くは河畔に至り絶妙な変化をみせる。川岸に配される城壁風の壮大な建物、遠く緑の丘と紺碧色のドナウ川、一体となった風景を望みながら乗車していると遊覧の電車を楽しむような時間を味わうことができる。特にくさり橋上流の両岸を走る区間では赤い南欧風の屋根が並び、うしろの王宮の丘にそびえる殿堂とともに、中世の歴史を感じさせる見事な眺めであつた。望見する古城、近隣にそびえる議事堂、華麗なホテル群などがこの国の歴史と繁栄を表し、それに根差す存在感が感じられる。トラムと並行しておしゃれなヴァーチー通りがつづき、高級な買い物客でにぎわう。くさり橋は市内七つの橋の中で最も芸術的に作られ観光名所にもなっている。歩道を仕切る分厚い鉄柱と引き綱が中央の堅牢な石煉瓦建ての壁に連なり、真ん中を走るトラムとともに重厚な景観を造っている。

 ホテルの朝食はフリーのバイキングであったが、品数は少なく、パンはいわゆる黒パンであり、十分に焼くことができない旧型のトースターしかなく、仕方なくこれは豊富にある果物バターを厚塗りして食べた。豊富な果物で補うのが食習慣であるように見えた。

夕食はホテルにはないので外のレストランで食べたが、歩道上のオープンレストランが意外とおいしく説明も丁寧で口に合う美味しいものを選ぶことができた。しかし肉はご多分に漏れず高級な部位でも硬く歯が立たず、ステーキを細かく切っても食べることができなかった。仕方なくひき肉ものや鶏肉を主に食べたが、一般的でおいしいのはグヤーシュというトマトスープに根野菜の入ったもので特に土地柄じゃがいもがコクもあり逸品であった。地元の人たちに倣い、ここにパンを浸しながら生ビールで昼夜食を済ますことが多く、日本では考えられない取り合わせであってもこの国の乾燥的な風土には丁度よいとり合わせなのかもしれない。値段は7~800円で収まり格安感に満足した。ときどきは日本食が無難であり市内に4軒あるうどんや等にも地図を頼りに足を運んだ。しかしいずれも現地の人に合わせた味付けのもので、柑橘系の味付けのうどんなどには辟易した。日本酒や日本のビールがわずかな救いで、これに野菜サラダなどで自分を納得させた。日本食店には大会参加の日本選手も集まり、翌日の試合への激励にお茶の差し入れを贈ったが、そのアメリカ戦に番狂わせで勝利したのは、自分の応援が少しは役に立ったかなと勝手に自負している。

 ハンガリーへ行くについて自分が最も興味のあったのは、前述のように、例の動乱後、自由社会に復帰してきたこの国がどのようなたたずまいを見せ、人々がどう暮らしているかなどを観察することであつた。そのため当初優先的に訪問するのは、いわゆる観光地ではなく、その歴史を展示する記念館であり、それは「ハンガリー戦争記念博物館」と圧政を記録する「恐怖の館」であった。館内の小部屋には動乱の歴史に従って展示される数々の遺留展示物があり、最後の部屋の処刑場跡において、その悲惨さはピークとなった。見学に来ていた女子高校生が慟哭しているさまが、中にいる人たちに深い同情を共感するものであったが、詳細は次回に記したいと思う。

H30年1月14日      山本健


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