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歴史研究会7月例会の報告


歴史研究会7月例会報告

都内下町の江東区深川から清澄白河にて、神社仏閣、並びに江戸の風情を満喫する視察勉強会を行いました。

参加者:17名

集 合:7月3日(水)午前10時、地下鉄門前仲町駅に集合

解 散:15時過ぎ、清澄白河駅にて解散

  • 第一視察先:『深川不動堂』

門前仲町駅から参道を進むと正面に大きなお堂が見えます。真言宗智山派(総本山:京都の智積院)の見事な仏像群と仏画を有する成田山新勝寺東京別院、通称深川不動堂です。

(智山派寺院:成田山新勝寺・川崎大師平原寺・高畑不動尊金剛寺・高尾山薬王院 等)

江戸時代初期、初代市川團十郎により不動明王が登場する歌舞伎を打ったことなどが背景となり、江戸市民の間で成田山の不動明王を拝観したいという気運が高まりました。これを受けて、元禄16年(1703年)、1回目の成田不動の「出開帳」が富岡八幡宮の別当・永代寺で開催され、その後、出開帳は12回行われました。永代寺は明治維新後、神仏分離令による「廃仏毀釈」により廃寺となり、富岡八幡宮として存続することとなりました。永代寺には千葉街道を守護する江戸六地蔵の第六番が安置されておりましたが、廃寺により消滅しました。

しかし、不動尊信仰は止むことがなく、明治11年(1878年)に現在の場所に成田不動の分霊を祀り、「深川不動堂」として永代寺を継承することが東京府により認められ、今日に至っております。残念ながら、江戸六地蔵第六番は再建されませんでした。尚、この周辺の現在の地名である「門前仲町」は元々「永代寺の門前町」という意味からきているとの事です。

約1時間、お坊さんにより堂内をご案内いただき、とても勉強になりました。本堂には迫力あるご本尊「不動明王像」及び脇侍の「二童子像」並びに「四大明王像」が安置されております。内仏殿には四国八十八箇所巡拝所が設置され、四国遍路を体験しました。加えて、七福神巡りも体験もしました。大日如来を安置する宝蔵大日堂では、中島千波画伯(日本画家:芸大教授)作の見事な日本最大級の格天井画「大日如来蓮池図」に圧倒されました。

また、旧本堂には帆刈黌童作の「おねがい不動尊」が安置されております。このお不動さんは熊本県天草に自生の樹齢5百年楠の霊木を使用した1丈8尺の国内最大級の木造不動尊像です。

  • 第二視察先:『富岡八幡宮』

深川不動堂に隣接しており、江戸最大の八幡宮として庶民に「深川の八幡様」と親しまれ、今日に至っております。

寛永4年(1627年)、菅原道真公の末裔である長盛法印が神託により当時永代島と呼ばれた小島に創祀されました。江戸の昔から現代まで変わることなく、多くが参拝に訪れます。深川八幡祭りは8月に行われる祭礼で、江戸三大祭りの一つに数えられます(他:神田明神祭・山王祭)。

江戸勧進相撲発祥の地として有名で、歴代の横綱力士と強豪大関雷電爲右エ門を顕彰しており、見事な碑が建立されております。この碑は12代横綱陣幕久五郎が発起人となり、明治33年(1900年)に完成された縦3.5m、厚さ1m、重さ20tの白御影石でできており、正面に宮小路康文の揮毫で碑銘があります。裏面には、初代明石志賀之助以降の横綱力士、及び「無類力士」雷電の名が並び、2代目の綾川五郎次、3代目の丸山権太左衛門、そして現在の第69代白鳳や第72代稀勢の里まで続きます。一般的な歴代横綱表はこの碑に基づくものです。

また、江戸時代の測量家である伊能忠敬の銅像もあります。忠敬は、当時深川界隈に居住し、測量に出かける際は、安全祈願のため富岡八幡宮に必ず参拝に来ていたことから、平成13年(2001年)に当社境内に銅像が建立されました。

  • 第三視察先:『紀伊国屋文左衛門の碑』

富岡八幡宮から清澄白河へ歩く途中に文左衛門の碑があります。紀州湯浅出身の文左衛門は20代の頃、紀州みかんや塩鮭で富を築き、その後、上野寛永寺根本中堂の造営で巨利を得て、幕府御用達の材木商人となります。さらに、八丁堀に広大な邸を構え、奈良屋茂左衛門勝豊との吉原における豪遊の逸話が伝わっています。そして、深川木場を火災で焼失し、材木屋は廃業してしまいました。

晩年は浅草寺内で過ごしたのちに深川八幡に移り、宝井其角らの文化人とも交友し、「千山」の俳号を名乗っていました。現在の清澄白河庭園は文左衛門の屋敷跡です。深川富岡八幡宮に総金張りの神輿三基を奉納したり、大火で消失した富岡八幡宮社殿建立費用にまとまった財産を寄進したりと、隠居後も潤沢な資産を持っていたとも言われております。

  • ランチタイム:『日吉屋』

深川といえば深川丼です。次に訪れる清澄白河の深川江戸資料館通り沿いにあります。元祖深川丼と書かれており、蕎麦屋としても老舗のようで、店内は天井が高く、全体的にガタがきているような、古くて懐かしい雰囲気を醸し出しているお店です。全員が着席してほぼ満席状態となりました。事前に予約を入れておいて、正解でした。

一駅分歩いたので、まずは瓶ビールでカンパイしました。昼ビールは最高です!アテには、本わさびの茎のしょうゆ漬けが出てきて、気に入りました。元々江戸時代の飲み屋は蕎麦屋だったので、このお店のような感じだったのかもしれませんね。ここはやはり冷酒!あちらこちらから冷酒の注文が飛び交いました。

多くの方々が注文されたのが、名物の深川丼セットです。むき身のアサリと、青いねぎがたっぷり入っていて、少し白くにごったアサリの出汁が良く効いた潮汁みたいなのが鉄鍋に入っていました。それをごはんにかけていただきました。アサリのコクが凄く効いており、ぷっくりしたあさりと、火を通しすぎていないね ぎとの組み合わせをご飯にかけると、本当に美味でした。

そして、ミニサイズの蕎麦で口直しです。最後に蕎麦湯で〆です。お昼のビールとお酒と深川丼とお蕎麦、楽しいひと時でした。

  • 第四視察先:『深川江戸資料館』

地下1階~地上2階の吹き抜け空間に、天保年間(1830年~1844年)の深川佐賀町の町並みを実物大で再現しており、江戸時代にタイムスリップしたようです。

ボランティアによる約1時間のガイドツアーがあり、一日の移り変わりが音響・照明などで情景演出されておりました。そして、お店や長屋に実際に上がって生活用具などに触れられる「体感型」の展示室あり、長屋での暮らしを中心に、当時の人々の生活をリアルに感じられました。

また、特別な企画展として「杉浦日向子の視点 ~江戸へようこそ~」を開催しておりました。杉浦日向子は江戸風俗研究家・漫画家・文筆家などと様々な肩書を持ち、NHK「コメディーお江戸でござる」でもおなじみの方でした。ときに「江戸からの旅人・タイムトラベラー」などと評される江戸文化のエキスパートです。亡くなられて今年で13年目になり、もしご存命であれば還暦です。

  • 第五視察先:『霊巌寺』

今回視察勉強会のトリを飾るのが、徳川家の宗派である浄土宗の霊巌寺で、深川資料館に隣接しています。

ご本尊は阿弥陀如来で、寛永元年(1624年)、徳川家康・秀忠・家光と三代にわたり信頼のあった雄誉霊巌上人が日本橋付近の芦原を埋め立てて造成し、自身の名を冠した霊巌島に創建しました。位置的には中央区新川1~2丁目あたりで、この場所は西が江戸城、東に隅田川と江戸湾、北は江戸城大手門に続く日本橋川という、江戸の街づくりと物資搬入の要所でした。

明暦3年(1657年)、明暦の大火で全山が焼失しました。その為、このお寺までは火が来ないだろうと逃げ込んだ避難民9,600人が全員犠牲になってしまったほどの大火災でした。翌年の万治元年(1658年)、徳川幕府の火事対策を重視した都市改造計画の一環として、当該寺を「川向こう」と呼ばれていた隅田川の東側にある現在の深川の地に移転させました。これが後の江東区が栄えるきっかけとなったのです。

このお寺には江戸六地蔵のうち、水戸街道を守護する第五番が安置されています。笠をかぶった立派な像高約2.75mの堂々とした地蔵菩薩坐像です。

また境内には松平定信の墓所があります。定信は宝暦8年は(1759年)、御三卿田安徳川家の初代当主・徳川宗武の七男として生まれ、陸奥白河藩の第3代藩主となります。第11代将軍徳川家斉の下で老中首座・将軍輔佐として幕閣から旧田沼意次系を一掃して粛清し、祖父・吉宗の享保の改革を手本に天明7年(1787年)から寛政5年 (1793年)までの間に『寛政の改革』を行い、幕政再建を目指しました。

『寛政の改革』は前任者である田沼意次の重商主義政策や役人と商家による縁故中心の利権賄賂政治からの脱却かかげ、飢饉対策、厳しい倹約政策、役人の賄賂人事廃止、旗本への学問吟味政策など、一応の成果をあげました。しかし、各方面から批判が続出し、幕府内部からも批判があり、僅か6年で老中を失脚してしまいます。老中失脚後は白河藩の藩政に専念し、名君として慕われました。

最期に、深川の佃煮屋兼駄菓子屋で、皆さん、アサリの佃煮等のお土産を買い、清澄白河駅から帰途につきました。

(写真:南、志賀 文責:伊藤)

<余談>

当日は梅雨の最中なので、天候を心配しましたが、雨は堪えてくれました。街中に咲き誇る紫陽花が綺麗でした。その花言葉は若干色っぽい「移り気」です。これは、紫陽花の花の色が咲き始めてからだんだん変化することに由来しているからだそうです。しかし、紫陽花の色は、一般に土がアルカリ性なら赤、酸性なら青になるといわれます。つまり、紫陽花は土壌の性質によって色が確定してしまうので、むしろ「移り気」の逆であり、「操」を象徴しているように思えます。そうすると、花言葉の語源とはしっくりいきません。しばらく「謎」でした。

この「謎」が一気に氷解しました。歴史研究会6月例会の視察で訪れた旧古河庭園の紫陽花園にて、庭師から教えていただいたのです。紫陽花には日本固有種と外来種があるというのです。日本原産の紫陽花は『ガク紫陽花』と呼ばれます。外来種は『セイヨウ紫陽花』と呼ばれ、日本原産の紫陽花がヨーロッパで品種改良されたもので、装飾花が球状になります。街中にて、よく見かける紫陽花は、実はこの外来種が大半なのです。日本原産は街中ではかなり数が少ないのです。

そして、この外来種こそが土壌の性質によって色を確定させてしまうのです。つまり、土がアルカリ性なら赤、酸性なら青になるのです。その一方で、日本原産の『ガク紫陽花』は太陽光線の強さによって、色を変えていくのだそうです。つまり、一日のうち、何度か色を変えるのです。だからこそ、花言葉は「移り気」なのです。西洋の方が「操」らしく、日本の方が「移り気」、この対比、実に面白いです。

以上

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