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歴史研究会12月例会 秩父視察& 忘年会報告


本来、12月例会はまず座学を行い、その後忘年会という流れが通例でした。しかし、座学を計画していた幹事伊藤の準備が間に合わず、従来と異なり視察へと変更しましたことを、最初にメンバーの皆さま、そして志賀幹事並びに南幹事にお詫び申し上げます。座学は来年2月例会にて行わせていただきます。

当日の天候はとても良く、気温もほどほど暖かめで視察日和でした。前日の12月3日が世界ユネスコ無形文化遺産「秩父夜祭り」であった為、当日はほとんどの商店や飲食店が休業という逆風の中、どうにか食事処などを確保する事ができました。

所沢駅から特急ラビューにて約1時間、ひとつ前の横瀬駅前に巨大な三菱マテリアルのセメント工場がそびえ立っているのを見ながら、終点西武秩父駅に到着しました。所沢から西武秩父まで特急券が500円だったので、池袋から所沢までの特急料金400円を勘案するとお得だなと思いました。

参加者:秩父視察9名  忘年会13名

集 合:12月4日(水)午前9時40分、西武所沢駅集合

再集合:17時、所沢土風炉にて忘年会

第一視察先:『秩父観音霊場第十三番 旗下山 慈眼寺(じがんじ)』

西武秩父駅から徒歩5分くらいで到着する秩父鉄道御花畑駅の目の前にある日本百観音霊場で、秩父三十四か所巡礼の第十三番目のお寺を視察しました。ちなみに駅名のお花畑はどこにも見当たりません。文明18年(1486年)、曹洞宗広見寺二世東雄朔法大和尚により開創され、御本尊は行基作といわれる聖観音菩薩です。秩父札所連合会の事務所があり、巡拝者の窓口となっています。

正面入口の薬医門と呼ぶ切妻造りの黒塗りの整った黒門の山門をくぐると、目前に立っているのが、明治11年(1898年)秩父大火で類焼し、一番四萬部寺の本堂を模して明治34年(1901年)年頃建造された本堂の観音堂です。観音堂は石積壇上に建ち、三間四面で表軒唐破風つきの入母屋造で色々な彫刻が施された屈指のお堂で、瑠璃殿と書かれた扁額も掲げられています。

また、当寺には2つのお堂があります。1つは本堂の左奥にある薬師堂で、「目」の仏様である薬師瑠璃光如来が祀られております。同お薬師さんは「あめ薬飾」と呼ばれて親しまれ、目の健康に悩みや不安を持つ方、新しい環境や境遇で「目」=「芽」を伸ばしたい方が参拝するそうです。

売店で売っている、飲む「目」のお守りである「眼茶」がお勧めです。テレビ・パソコン・スマホ等の使用による疲れを訴える人が急増の現代社会において、「眼茶」は100%国産の無農薬で育てた「メグスリノキ」だけを使ったティーバッグに入ったお茶で、目の疲れをほぐしてくれるそうです。

<ご参考>

メグスリノキ:日本にだけ生息するムクロジ科カエデ属の落葉樹。別名「長者の木」とも「千里眼の木」とも呼ばれる。戦国時代からの民間療法で、樹皮を煎じた汁を目薬として使用すると効能があると伝わる。カエデ属なので、葉っぱの形態は紅葉の如くで紅葉する。その樹皮・葉・枝にタンニンの一種の「ロデドンドロール」や「カテキン」が含まれ

  • 抗菌作用

  • 利尿作用

  • 血圧降下作用

  • 血糖値降下作用

  • 肝機能の解毒作用向上

などの効果がある。

もう1つは山門をくぐると右手に経蔵があります。一切経輪蔵で、堂内に回転式の六角灯籠型の一切経1630巻が納められた経蔵があり、これを回しながらお参りすると、一切経を読誦したのと同じ功徳が得られるといわれております。秩父札所の縁起で開創者と伝えられている十三権者(じゅうさんごんじゃ)のりっぱな木像も安置されております。

第二視察先:『聖神社』

御花畑駅から単線の秩父鉄道で熊谷方面へ二駅で和同黒谷(わどうくろや)という駅に着きます。その途中に秩父太平洋セメントの巨大な工場がありました。三菱マテリアルと秩父太平洋セメントの巨大工場群、そのセメント原料となっている石灰岩が採掘されているのが、秩父のどこからも見ることができる秩父の象徴といわれる武甲山です。

武甲山は標高1,304m、日本二百名山の一つで、その石灰岩は日本屈指の良質な大鉱床であり、可採鉱量は約4億トンと推定されています。山の北側斜面が石灰岩質であり、古くから漆喰などの原料として採掘されております。明治期よりセメントの原料として採掘が始まり、特に1940年(昭和15年)に秩父石灰工業が操業を開始し、さらに三菱セメントが1969年(昭和44年)に操業が開始されて以降、山姿が変貌するほど大規模な採掘が進められました。車窓から見ると、特に北斜面で山体の崩壊が著しく、無残で痛々しい限りでした。それ故、標高1,336mであった旧山頂は既に喪失されたそうで、旧山頂にあった縄文時代から近代までにいたる歴史のあった信仰遺跡、巨岩群も破壊され、完全に消滅してしまったそうです。天然記念物の高山植物群生地も大半が失われるなど植生の破壊も著しく、奥武蔵の名峰と称えられた往年の面影は残念ながら既にありません。

和同黒谷駅から徒歩10分くらいで、秩父盆地の中央部やや北寄りに聳える簑山から南西にかけて延びた支脈である和銅山山麓に鎮座する聖神社に到着します。簑山を水源とする川が流下する社前は和銅沢と称されています。

今から1300年前の慶雲5年(708年)に自然銅が発見され、和銅改元と和同開珎鋳造の契機となった神社とされます。このように、日本で初めて誕生した流通貨幣が造られた由緒正しき場所なので、「銭神様」と呼ばれており、日本初の流通貨幣「和同開珎」が祭られております。まさに歴史研究会に相応しい視察場所です。なぜこの場所が日本初となったかの経緯については、後述「由緒」をご参照ください。

  • 本殿

石段を上りつめると入母屋造りの礼拝殿が正面にあり、その奥に一間社流造りの本殿があります。本殿は一間社流造銅板葺で、江戸中期の宝永6年(1709年)から7年頃に大宮郷(現秩父市)の工匠大曽根与兵衛により市内中町の今宮神社(京都に本宮あり)の本殿として建立しました。昭和39年(1964年)に当神社社殿として移築されました。なぜ移築が許されたのか調べたのですが、残念ながら分かりませんでした。

桃山期の遺風を残した活気と優雅さを思わせる彫刻が施されていて、秩父市内における江戸時代中期の建造物として優れている事から「聖神社の社殿」として秩父市指定有形文化財(建造物)になっています。拝殿は方3間の入母屋造平入銅板葺です。本殿脇の和同開珎のモニュメントやその静かな佇まいが厳粛で厳かな気分にさせてくれます。

「宝くじ」などを持参すれば宮司さんが祈願もしてくださるらしいですよ。金運アップのご利益で宝くじの高額当選の報告も続出しているといううわさもあります。マスコミにも紹介され、全国から参拝者が訪れ「訪れればお金に困らない」との評判が立っているそうです。

  • 祭神

金山彦命・国常立尊・大日孁貴尊(=天照大神)・神日本磐余彦命(=神武天皇)の4柱に元明金命(げんめいかがねのみこと=元明天皇)を合祀しています。 なお、境内石碑には『…当社はこの歴史的由緒ある「自然銅を主神」として祀り、更に金山彦命、元明金命を合祀し…』だとあります。

  • 由緒

第43代元明天皇の時代に武蔵国秩父郡から日本で初めて高純度の自然銅(ニギアカガネ=和銅)が産出し、慶雲5年(708年)正月11日に郡司を通じて朝廷に献上されました。喜んだ天皇は同日「和銅」と改元し、多治比真人三宅麻呂を鋳銭司に任命して和同開珎を鋳造させました。そして、その発見地は当神社周辺であると伝えたとされています。社伝によれば、自然銅の発見を祈念して和銅沢上流の祝山(はうりやま)に神籬を建て、この自然銅を神体として金山彦命を祀ったとあります。

銅の献上を受けた朝廷も銅山の検分と銅の採掘・鋳造を監督させるために三宅麻呂らを勅使として当地へ派遣、共に盛大な祝典を挙げた後の和銅元年(708年)2月13日に清浄な地であると現社地へ神籬を遷し、採掘された和銅13塊を内陣に安置し、金山彦命・国常立尊・大日孁貴尊・神日本磐余彦命の4柱を神体とし、三宅麻呂が天皇から下賜され帯同した銅製の百足雌雄1対を納めたのが創祀となっています。後に元明天皇を元明金命として合祀し「父母惣社」と称したといわれています。

なお、『聖宮記録控』(北谷戸家文書)によると、内陣に納めた神体石板2体、和銅石13塊、百足1対は紛失を怖れて寛文年間から北谷戸家の土蔵にて保管され、昭和28年(1953年)の例大祭に併せて挙行された元明天皇合祀1230年祭と神寶移還奉告祭により神社の宝蔵庫に移還されましたたが、現存される和銅は2塊のみです。残りはどこに行ったのでしょう?

  • 境内社:和銅出雲神社

本殿左脇に大国主命を祀る和銅出雲神社が鎮座し、11月3日に例祭が斎行され、黒谷の獅子舞が奉納されます。昭和39(1964年)年に旧本殿(文化4年{1807年}の竣工)を移築したもので、一間社流造銅板葺、向拝中央に唐破風、脇障子に彫刻を飾ります。本殿右脇には、八坂神社が鎮座します。本殿裏山には、山神社が鎮座します。

聖神社から1300年前に実際に自然銅が採掘されたという「和銅採掘露天掘り跡」へ行けるという事で、下見の時、山中の相当の坂道を15分以上登りました。登って再び下ってしばらく進むと、日本の流通貨幣の発祥の地として、『聖神社』にある和同開珎モニュメントより大きな高さ5mのコンクリート製の和同開珎モニュメントが存在する場所に出ますが、モニュメント以外何もありませんでした。モニュメントの脇を「銅洗堀」と呼ばれる小さな谷川が流れており、そこが和銅採掘露天掘り跡であるという標識が立っていますが、それ以外何もなく、良く分からず、シンドイ思いをしてまで一見の価値があるとは思えませんでした。とにかく、日本で鋳造・発行された最初の流通貨幣であるにもかかわらず、そのリスペクトを感じさせない冷たい扱いはなんなのか・・・・・秩父市観光課のやる気のなさを痛感させられました。『聖神社』のみで十分に和同開珎を味わえるので、モニュメント見学はやめました。

ランチ:『ゆずりは』

秩父鉄道秩父駅から徒歩数分の蕎麦屋です。秩父名物グルメは「蕎麦」と「わらじカツ丼」と「豚味噌丼」です。下見の時、これらを求めて探し回りましたが、時期が悪く、前日の12月3日は「秩父夜祭り」なので、翌4日当該日は殆どの有名な飲食店が休業との通告を受けました。やっと見つけたのがこのお店です。蕎麦屋で、名物の「豚味噌丼」とお蕎麦のセットメニューがあり、多くの皆さんが注文されました。秩父名産の豚肉と味噌で味付けした「豚味噌丼」は美味で、ビールとの相性はピッタリでした。蕎麦も良かったですね。

第三視察先:『武甲酒造』

秩父鉄道秩父駅から徒歩5分、秩父の市街地にある江戸時代中期(宝暦3年=1753年)創業の266年以上もの歴史がある秩父の老舗酒蔵です。現在の蔵元で13代目社長は前日が秩父夜祭りのため、飲みに飲んで昨夜の25時過ぎにやっと就寝、酒蔵の為、早朝5時に起床したというにもかかわらず、午後の1時過ぎの見学案内を無料にてしていただきました。

現在の建物は江戸後期に建てられ、2004年には国指定の登録有形文化財に登録された秩父谷に残る最も古い建物で、重厚感があり昔にタイムスリップしたような素敵な店構えです。

良い醸造水を求め数度の移転を経て現在の酒蔵・店舗があるこの地に店を構えたとの事で、武甲酒造の敷地内には平成の名水百選に選ばれた「武甲山伏流水」が湧き出る井戸があり、武甲酒造ではこの水を酒の命でもある仕込み水として使用しています。

「武甲山伏流水」は武甲山に降った雨水が地中に深くに浸み込み、長い期間をかけて自然にろ過され伏流水として秩父市内に湧き出した水で、古くから生活用水などに使われています。水質は日本では珍しい中硬水で、ミネラルが多く含まれています。営業時間中、中庭にある2箇所の水場を開放しているので、自由に「武甲山伏流水」を頂くことができます。ミネラルが多く含まれていますが、硬水より飲みやすくひんやりしていて美味しいです。また、この武甲山伏流水はペットボトルなどの容器を持参すれば持ち帰ることも可能です。

案内の最後が試飲会です。13代目が色々とウンチクを述べ;

  • 本醸造生酒しぼりたて

  • にごり生酒

  • 大吟醸

  • 特別純米原酒ひやおろし

  • 本醸造

  • 赤い梅とにごり酒で作った桃色の「桃萌」

を試飲させていただきました。そして、にごり生酒と純米酒を混ぜた飲み方、にごり酒と牛乳で割る飲み方、「桃萌」はロックで飲むと美味しい等、伝授されました。また、麹水、塩麹、からみそ等も奨められました。蔵見学の所要時間は40分ほどで終了しました。

第四視察先:『秩父神社』

武甲酒造から徒歩10分くらいで到着する関東屈指のパワースポットで、知知夫彦命(ちちぶひこのみこと*)が祖神である八意志兼命(やごころおもいかねのみこと**)を祀った事に始まり、妙見様(***)を合祀して、2014年には鎮座2100年を迎えた歴史のある秩父地方の総鎮守です。秩父三社の一つ(他は三峰神社と宝登山神社)であり、世界無形文化遺産登録の『秩父夜祭り』は秩父神社の12月の例大祭です。

*知知夫彦命:武蔵国北西部となる地域(知々夫国)を支配した国造

**八意志兼命:日本神話に登場する神で、岩戸隠れの際に、天の安原に集まった八百万の神に天照大御神を岩戸の外に出すための知恵を授けた

***妙見菩薩:北極星を神格化した仏教における菩薩で北辰信仰といわれる。徳川家康が信仰し、自ら江戸を守る北極星となるべく日光東照宮を建立させた

昔は「嶽山」と呼ばれていた「武甲山」を遙拝(遠くの離れた場所から神仏をはるかに拝む事)する役割を持っており、つまり武甲山は秩父神社の神奈備山(神の鎮座する山)なのです。

群雄割拠の戦国時代の永禄12年(1569年)、甲斐の武田信玄が秩父一帯を焼打ちし、由緒ある秩父神社も焼失してしまいました。しかし、荒川の源流にある秩父地方は江戸時代に重要な水源の地とされたので、1592年に徳川家康が水源地である秩父を守る目的で、現在の社殿の再建を命じました。その結果、江戸時代初期に活躍した日光東照宮や出雲大社なども手がけた左甚五郎の作品が多数あります。参拝時、社殿を下から見上げながら一周すると、色鮮やかな彫刻を多く堪能できます。

何度か修復が行われ、1966年に台風の影響で損傷した際に4年かけて復元を行ったものが現在の社殿です。権現造で、鮮やかな色の彫刻が施された豪華な作りが特徴で、埼玉県の重要文化財に指定されています。

  • 秩父神社のご利益:

  • 学業成就・合格祈願→主祭神の八意志兼命は知恵を司る神様

  • 開運・家内安全・子孫繁栄

  • 社殿彫刻の見どころ

秩父神社は権現造と言われる建築様式で、色鮮やかな社殿の彫刻はみどころのひとつです。本殿再興を命じた徳川家康は寅の年・寅の日・寅の刻生まれという事で、拝殿前は四面にわたってすべて虎の彫り物が施されており、名工左甚五郎の作品とされるものも含めて有名な彫刻を堪能できます。

  • 子宝・子育ての虎

社殿正面、向かって左側にあるのが左甚五郎作と伝わる「子宝・子育ての虎」です。寅年生まれの徳川家康が秩父神社秘伝の「虎の懺法(せんぽう=ざんげの方法)」を珍重したことから、社殿の正面の彫刻になっているという逸話があります。右側の小さい虎が子供で、その左がヒョウ柄の母親虎です。虎なのに母親がヒョウである理由は、江戸時代の認識ではメスの虎が現在のヒョウと識別されていたためです。従って左にいる正真正銘のトラはオスであり、父親です。よって、父と母の虎が子を育てている構図の彫り物となっています。京都などの寺院にある襖絵等に虎とヒョウの図が多く散見されます。

名前はつけられていませんが、社殿の右側にも同様の虎の彫刻があります。正面両側の虎が、秩父神社の荘厳さをひきたてています。

  • お元気三猿

日光東照宮の三猿「見ざる・言わざる・聞かざる」とは正反対で、秩父神社の三猿は「よく見て・よく聞いて・よく話す」の「お元気三猿」と呼ばれていて、健康長寿を願う絵馬やお守りにもお元気三猿が描かれています。健康長寿を願う際には、絵馬やお守りで、このお元気三猿の元気にあやかってみてはいかがでしょうか。彫刻の場所は社殿の左奥側です

ちなみに日光東照宮の総本山である比叡山延暦寺の宝物館にあったのは、驚くなかれ『四猿』で、「見ざる・聞かざる・言わざる・やらざる」でした。​

  • 北辰の梟

社殿の裏側である北側中央に彫刻されています。体の向きは社殿の正面南側にある本殿に向いて、顔が正反対の後ろを振り返って裏側北方面に向いていますが、思ったより小ぶりでした。

ふくろうは東洋でも西洋でも知恵の象徴とされていますが、秩父神社でも学業成就の霊力を得るふくろうの置物や、「ふくろう=不苦労」から開運のしるしとしてお守りにも描かれています。この梟が見つめている方角に「秩父神社」の祭神である「妙見様」が出現すると言われていて、「秩父神社」と密接に関わる鳥と考えられている。

  • つなぎの龍

社殿右奥にあり、左甚五郎作とされる見事な龍の彫刻とされるが、今回は修復中との事で、布に覆われ、よく見ることができず残念でした。秩父神社の鬼門である東北を守護するために作られたとされています。この龍は、よく見ると鎖につながれているそうで、昔、秩父札所の第15番である「少林寺」周辺にあった近くにある天ヶ池という池に棲みついた龍があばれると、いつもこの龍の彫刻の下に水たまりが出来たので、龍の彫刻を鎖でつなぎ止めたところ龍が表れなくなったという不思議な伝説があります。

忘年会:『土風炉』にて

文責:伊藤芳康

写真:南 博幸

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