(まえがき)
もとより、西武鉄道との馴れ初めは、4歳年長の次兄が中野区沼袋の下宿先で修学に励み、その後を追う形で、同所を拠点に1時間余りを費やして日吉目指して通学いたしました。
今振り返れば、東京メトロ新都心線を介して東横線/みなとみらい線との4線相互直通運転が実現した今日、当時の乗り換えの煩雑さに比べ想像もつかない交通至便な画期的快挙は全く夢の様です。大学卒業後、ご縁があって同社に奉職しましたが、社内には塾員の役職員の在籍は皆無に等しく、稲門出身で柔道部卒業の猛者の上司が慶早戦の好みで引き立てて下され、優遇される幸運に恵まれました。思えば、幸せなサラリーマン人生を送れた事を今更ながら感謝しております。
(西武鉄道の所沢に関わる事業)
今では 、所沢での企業ブランドともいえる西武鉄道ですが、40年余りに及ぶ在職中に携わった所沢市ご当局との業務上の主な折衝事項としては次の様な事業があります。
1.土地開発事業:西武園ゴルフ場/小手指区画整理事業の種地取得/
小手指電車基地倍増拡張/松が丘分譲地等の用地買収
2.旧西武園球場(現西武ドーム)大改造並びに旧狭山湖駅(現西武
球場前駅)の3万人超え収容の大観衆乗降駅に相応しい6線化工事
と球場周辺一帯の自動車利用増による交通公害対策
【1963(昭和38)年に竣工した西武園野球場】
なお、これらの一連工事等は、1978年初秋、融資先の(注)福岡野球会社(オーナー:故岸信介宰相の首席秘書官中村長芳)が経営破綻に陥り、肩代わりすることからライオンズ球団のフランチャイズを移転せざるを得ない羽目に陥り、公式戦開催の保護権益地域の移設に伴い生じたものです。
これにより、チーム名も新生西武ライオンズとして球界進出を果たしました。
【1985(昭和60)年の西武ライオンズ球場】
しかし、その当時、大洋ホエールズ球団の株を45%保有していたことから、プロ野球のバイブルとも言うべき同協約の同一オーナーの2球団の経営関与の「野球協約」に謳う御法度条項に抵触。これを急遽、ニッポン放送とTBSの両社に譲渡。結果的には、この収益金がこれらの建設工事費を賄うことに大いに寄与する幸運の女神が舞い込んだ経緯があります。
(注)福岡野球会社の球団の前身はご存知の通りの大下弘・中西太・豊田泰光・稲尾和久等を擁し、智将三原監督(早大OB)率いる野武士軍団の西鉄ライオンズ。昭和33年には、球界の盟主・名門巨人軍監督水原茂・エース藤田元司ともに塾員の宿敵を相手に日本シリーズ史上特筆大書すべき3連敗4連勝で奇跡の選手権3連覇した強豪の人気チーム。この快挙は、本家本元のMLBのメディアデーターブックにも前例の搭載が見当たらない。因みに、この年にスーパールーキー長嶋茂雄が巨人入団。
3.西武グループ各社本社機能の池袋から所沢への移転
但し、商業登記簿上の本店所在地は豊島区南池袋に据え置く。
本音では本業は不動産会社としての経営方針に徹し膨大な所有土
地の筆数に配慮。これぞ近江商人堤商法の真骨頂の顕れ。
4.西武園競輪場の大改修
在職時最晩年、競輪事業運営の総責任者を拝命し、かって秩父宮
妃杯G1特別競輪を開催した栄光のバンク復活に賭けた。同市は施
行権を2か月/12日間保有。その昔、当該収益金は学校/道路/橋梁
等の公共施設所謂、インフラの建設整備充実の潤沢な資金供給源
として、正しく、打出の小槌の役割を果たしていた。皮肉なこと
に、現在では、競輪ファンの高齢化と相俟って、JRAの人気に圧
倒され衰退の一途で、すでに、同市は施行権を返上。
【西武園競輪場】
振り返って、上記のこれらの内容を円滑に遂行するため、同市首脳各位のご高説を拳拳服膺し、反面、行政を通じて市民から市ご当局に寄せられる西武企業集団に対する厳しい叱責を反省するとともに謙虚に甘受することも多々ありました。
(小手指ニュータウン誕生の物語)(*)
1.小手指の地名の由来
・1333年(元弘3年) 新田義貞が鎌倉幕府討幕のため、小手指ヶ
原で合戦。史実に基づき、小手指ヶ原古戦場として記念碑が
建立されている。
【小手指ヶ原古戦場記念碑】
新田義貞は小生の郷土の武将。七里ヶ浜に剣を投ずる勇姿が
銅像として崇められた。この光景は、文部省唱歌"鎌倉"の歌詞
(注1)で有名で卿愁を誘う。
・1943年(昭和18年) 入間郡小手指村が同郡所沢町に合併。
・1950年(昭和25年) 所沢市に昇格(県内第8番目の市が誕生)
2.小手指と西武鉄道との結び付き
・1915年(大正4年) 武蔵野鉄道(池袋⇒飯能)開通
(創業時はSL運転)
【出発を待つ武蔵野鉄道の蒸気機関】
・1966年(昭和41年) 複線化延伸(池袋=西所沢⇒小手指電車基
地)
電車基地運用開始
・1970年(昭和45年) 小手指駅開設(駅名の呼称は、大字北野に因
んで”北野"に命名したいところ、既に、京王線に同駅名が存在
し止むを得ず断念。古戦場を連想し”小手指"と決定。市当局や
会社の肝煎りで折角、将来の発展が約束されているニュータウンの玄
関口に相応しい期待の新駅ゆえ、関係者一同、難読駅名に甘ん
じることに少なからず懸念した。
・1977年(昭和52年) 同市施行の北野土地区画整理事業完了
・1979年(昭和54年) 同駅の橋上化が完成
・2009年(平成21年) 同駅乗降人員一日平均48,668人92駅
中順位18位
3.北野土地区画整理事業のあらまし
①目的と効果
・街の健全な発展を目指して、快適で住み良い街造りを志向
・道路/広場/公園などの公共施設を整備し、土地利用を増進
・基になる法律は"土地区画整理事業法”
②あらまし
・対象面積 90ha(久邇CCの27ホールのゴルフ場の面積に相当)
・事業主体 所沢市
・減歩率 平均22%(協力各地主の土地が区画整理後、価格が
上昇して、持ち分の4/5弱が返還される方式)
・道 路 20ha(18%)
・公 園 2.7ha( 3%)
・定着人口 4.8万人(区画整理対象区域周辺を包含し、市内
11ブロックに分割された小手指地区が人口最多の躍進ぶり)
・西武鉄道の対象区域内の種地は 26.5haで30%弱
③ヴィルセゾンマンション敷地の経緯
(木下房子/ひろみご両人をはじめ会員在住)
・区画整理施行以前、キンケイカレー会社の食品製造工場跡地。
その後、明治製菓が吸収合併。一時、明治キンケイカレーとして
事業を継続。位置は対象区域の東北端。
・区画整理完了後、西武都市開発会社
(堤清二率いるセゾングループ傘下のディベロッパー)
がこの物件を譲り受け、市内にあっては、高級指向の
マンション開発を試み分譲し、今日に至る。
④同市の時の為政者との関わり
(開発事業推進途上、貴重なご高見を拝聴)
・平塚 義角市教育委員長(平塚 宗臣 初代会長のご尊父)
教育委員長歴任 昭和43年⇒同53年
・武藤 保之助市議会議長(武藤 正 会員のご尊父)
議長歴任:昭和43年⇒同46年
市長歴任:昭和58年⇒同62年
4.回顧
・昭和35年、西武鉄道奉職。高田馬場駅の現場駅員見習い勤務を経
て、翌年、不動産開発業務に従事。同30年代後半、小手指は美し
い赤松の平地林に覆われたのどかな田園地帯そのものであったと
の第一印象が未だに、根強い。
・既に、会社は所沢市の開発構想の打診を受け、将来の大発展を見
込んで用地買収に積極的に取り組み、その甲斐あって、区画整理
の恩恵で大いに潤った。
・区画整理が一段落し、街路が整備され、昭和45年、瀟洒な小手指
駅が開設されるやいなや、同駅始発の電車目指して周辺一帯は通
勤客のマイカーの洪水に包まれ、壮観を極め、時の磯村キャスター司会の
NHK/NC9でその惨状を放映。
・西所沢~狭山ヶ丘間、4.3kmと比較的駅間距離の長いほぼ中間地
点に沿線旅客待望久しい念願の新駅が誕生。狭山ヶ丘駅最寄りの
利用客からはサービスの格差の是正について詰問され、広報課長と
して誠心誠意、実情説明に努め、理解を求め納得をいただいた。
・新駅の開業、区画整理に基づくニュータウンの建設などなど、武蔵野の
面影が一変した姿を垣間見ると、今昔の感に耐えない次第です。
(注1)文部省唱歌”鎌倉”の歌詞
♪七里ヶ浜の磯伝い 稲村ケ崎名将の 剣投ぜし古戦場・・・
昭和10年代後半、大東亜戦争終盤、当時の国民学校の修身
教育は忠君愛国・忠孝・勤勉・倹約を旨とし、勝利に向けて 士気を鼓舞した。
その象徴として、新田義貞や二宮金次郎(注2)の銅像の
礼拝を強いられた。
そのブロンズも敗色濃厚となるや、台座の御影石を残して、
弾丸製造の貴重な金属材料の軍需品として献納する羽目に
なった。
(注2)二宮 金次郎(尊徳) 篤農家、各地の新田開発に貢献。
出身地に因んで小田原城址の一角に、遺徳を称え尊徳神社が
祀られている。
こちらも、鎌倉と同様に文部省唱歌。歌詞は♪柴刈り縄ない
草鞋をつくり、親の手助け弟を世話し・・・兄弟仲よく孝行
つくす、手本は二宮金次郎
(結び)
これまで縷々西武鉄道と所沢の関わりについてご説明申し上げてきましたが、昭和35年に同社に奉職以来企業人生の多くの時間を所沢に重ね合わせ、今当時を思い浮かべながらこの発展してきた土地の姿を目にする今日、隔世の感に堪えない次第であります。
(*)この記事は所沢三田会の英語会の演習「平成23年6月26日(日)」の一環として、”Show and tell”の授業で、別紙の通り「小手指ニュータウン誕生記」を口演した時のものです。その時の説明補足資料として、小手指古地図/現況地勢図/鳥瞰図/小手指区画整理事業関係図書/近辺一帯の今昔写真集/ところざわ広報紙バックナンバーを併用いたしました。新型コロナ禍でオンライン(ネット)が俄に脚光を浴びている今日この頃、この新兵器を有効活用して頂ければ、会員諸兄の理解度も一段と向上すること請け合いです。又、その時の英文訳(自己流の出鱈目極まりない日本語英語の羅列でお恥ずかしい限りで・・・)もご参照頂ければ幸いです。
【所沢三田会英語会/下段左から2人目が小林常男氏】
The story of Kotesashi New Town’s Birth
1.The history of Kotesashi area
Once upon a time, in1333,Yoshisada Nitta did the battle in
Kotesashi field on account of bringing down Kamakura feudal
government. The monument was built at the spot as a field
of Kotesasi. (He was a brave general of my native country
Gunma prefecture.) Gallant bronze statue pitching out his
heirloom’s sabre to Inamuragasaki beech was worshipped as
a god by a number of persons. This spectacle is famous for a
primary school song “Kamakura” admitted by the ministry of
Education. It makes persons feel sad.
1943,Kotesashi Village Iruma districts was annexed to
Tokorozawa Town the same district.
1950, Tokorozawa town was promoted to a city.(The 8th city
in Saitama prefecture)
2.Connecting Kotesashi with Seibu corporation
1915,Musashino railway line was opened to traffic from
Ikebukuro to Hanno.
1966,It was lengthened by double-track the railroad as far as
Kotesashi Electric Car Base from Nishitokorozawa. This base
was operated as electric-cars base at the same time,
1970,Open the the Kaotesashi Station.
We couldn’t hope to the name as Kitano for the district,
because there was already a station with the same name on
Keio Line. We gave the name to Kotesashi for the old battle
field. We, authorities were greatly concerned about the
difficult of its reading. because we looked forward to much
the growth of new town.
1977,Kitano street improvement business expected much of
the growth of the new town..
1979,Kotesashi Station’s Building was built over the railway.
2009, Kotesashi’s passengers:48,668 persons a day on the
average; the 18th highest in the 92 stations.
3.As to Kitano land readjustment project
①Purpose and effect
・Aim for the sound development of town, amenity town
with comfort of life.
・Improvement of roads, parks, and etc, and promotion of
land use.
・The reference law is “Land Readjustment Law”.
②Outline
・The object area : 90ha (be equal to the area of Kuni C.C.
held 27holes)
・The project operating body : Tokorozawa City
・ In the percent of burden : 22% on the average (After
the owner of real estate takes part in land readjustment
project, the value of real estate increases. It’s a system
that holdings of 4 per 5 are returned to the original
owners.)
・Road : 20ha (18%)
・Park : 2.7ha( 3%)
・The fixing population : 48thousand persons (Kotesashi
area are made a rush for population explosion in the city
among 11 area blocks, including around that land.
③The detail of Villa Season’s Mansion site where our teacher
Mis Kinosita lives.
・Before the project, there was Kinkei curry’s food product
factory. Kinkei was merged into Meiji confectionery
company. It was on the north-eastern rim of this area..
・After the project, Seibu Toshi developer company took
over the site and developed a high-grade apartment
building in Tokorozawa and sold in lots. (This developer was Season group corporation under owner Seiji
Tsutsumi)
④At that time relationship between this project and
administrators (for your information)
・Yasunosuke Muto was the chairman of Tokorozawa city
assembly from 1968 to1971,and the mayor from 1983 to
1987.(The father of Akira Muto, a chief assistant manager
at Tokorozawa Mita party)
・Gikaku Hiratsuka was chairman of Tokorozawa educational
committee from 1968 to 1978. (The father of Sojin
Hiratsuka, the president at Mita party)
4.The postscript (Recall to my mind・・・)
・1960, I joined Seibu Railway Co. Ltd. and was appointed to
duty with Takadanobaba station’s employee. After a year, I
was engaged in the real estate development division. In the
late 30s. of Showa, Kotesashi area covered with beautiful
pine grove was peaceful rural country.
・Seibu was already sounded out on Kotesashi project by
Tokorozawa city and tried to buy positively extensive lots. As
a result, Seibu was benefited enough by the project.
・After the project, the streets were improved. As soon as the
chic station of Kotesashi was set up in 45th of Showa, the
station square and near streets were suffered from the flood
of many passengers’ motorcars to take the first train from
this station.
It presented a grand sight!
・The section from Nishitokorozawa to Sayamagaoka was
comparative long interval of 4.3km. The new station was set
up at halfway between those two stations. I was troubled with
complaints of making service for Sayamagaoka. I took them to
do matters in all sincerity as a chief of public relation.
・When I see the complete change of Musashino, the birth of
new station and the construction of new town, I feel as if , I’m
living in a quit different world. The end