<コロナ禍の中での明るいニュース‼>
去年2月に急性心筋梗塞の緊急手術、今年のコロナ禍と、気が滅入る生活が続く中、7月に嬉しい知らせが。心臓リハビリのため去年から始めた水彩画、上野の森美術館日本の自然を描く展に出品した作品が「入選した」という連絡でした。妻は去年に続いての入選で、夫婦揃っての入選。入選作品は「『祈り!』嚴島神社」、一昨年の西日本豪雨災害への復興支援とコロナ禍終息の願いを込めました。
<忙しかった慶應の4年間>
慶應には一浪して入学。在学中に3つのサークルを創設、クラス委員にゼミ委員、小学校の同窓会長などを務め、取得単位は200以上と、学業に課外活動(もちろん青春も謳歌)に大忙しの4年間でした。塾監局占拠など大学紛争時には、正面から向き合い、学術的アプローチと非暴力路線を貫きました。
中でも思い出は、法律サークル「十八人会」の創設と、恩師峯村光郞先生との出会いです。
「十八人会」は入学直後に同級生十八人に呼びかけて設立、現在慶應が司法試験合格者数のトップ争いをする礎を築きました。ただ第一の目的に掲げたのは法律家としての人格陶冶でした。
ゼミは、法哲学の峯村光郞先生で、先生からの「熟慮断行」「過去現在的ではなく現在未来的に生きること」「楽天的予定調和の精神」の教えは今も大切にしています。
メディアの道に進んだのは、司法試験現役合格を果たせなかったこともありますが、高校1年(都立九段高校)の秋に起きたキューバ危機の際、本当に戦争が起こるのではないかと13日間眠れず、絶対に戦争がない平和な世界を実現しなければと心に誓ったからです。
<NHK34年間は、社会正義の実現を掲げ“直球勝負”>
NHKには昭和45年に入局。仙台、いわき、北九州各放送局を経て、昭和56年に東京・社会部に、そして昭和63年に大阪報道部に、平成3年に東京に戻り、平成16年(2004年)に解説主幹を最後に定年退職。
いわき時代には、本州最大の常磐炭鉱を担当、地底600㍍の採炭現場を何度も取材、閉山の際には会社側から「死に水をとってほしい」と言われました。
北九州時代には、覚醒剤密輸事件の黒幕で、当時国内で最凶悪といわれた暴力団会長にメディアとして初めてマイクを向けました。
東京の社会部記者時代には、新宿西口バス放火事件(昭和55年)を検証取材。事件一年後、福井県の東尋坊で心中を図ろうとした被害者女性から「助けてほしい」とSOSを受け、夜を徹して説得も(経緯は、杉原美津子著「生きてみたいもう一度」(文藝春秋社)に)。彼女が亡くなるまでの34年間、サポートしました。
私が工学系と関わりを持つきっかけは「コンクリート」。
人間が作ったものが本当に半永久的な寿命があるのかという素朴な疑問が取材の出発点で、砂の採取現場からセメント・生コン・鉄筋の各製造工場、さらに大学や国、民間の研究所、施工現場に足を運び、一つ一つ検証しました。その結果、必ずしも半永久的では無いことが分かり、取材を基に、関西地方で地震が起きてコンクリート構造物が崩壊するという本「重い遺産」(祥伝社)を出版、当初は私学文科系出身の記者に何が分かるかと猛反発を受けましたが、12年後に起きた阪神淡路大震災でそれが現実となり「コンクリート安全神話」が崩れました。
バブル景気の時は、サラリーマンのマイホームがマネーゲームの対象になった時点で、土地問題担当記者として、いわき時代に知り合った黒田東彦氏(現日銀総裁。バブル時は大蔵省課長)の協力も得て、地価高騰のカラクリを暴き、バブル崩壊につながりました。
社会的弱者に寄り添い、社会正義の実現を掲げ、“直球勝負”に徹したNHK34年間。その後の11年間の大学教授時代、学生には「失敗を恐れるな」とチャレンジ精神の大切さを強調しました。
<コロナ禍が突きつけたもの>
毎日ウオーキングしている八国山緑地で、いろいろな生きものが一生懸命生きている姿や、木漏れ日や風に接していると、今回のコロナ禍は、“地球は人間だけのものではない”と地球を自分勝手に改変してきた人類への戒めのようにも思えます。自分のちっぽけさも良く分かりました。
地球温暖化が更に進み、干ばつや大災害が頻発、食糧が絶対的に不足すると懸念され、また北極などの永久凍土が溶け、閉じ込められていた温室効果ガスや病原菌が外部に放出される危険も指摘されています。
次代を担う子どもたちの未来や地球環境を守るために、現在の“使い捨て”の大量生産・大量消費の経済システムから“繰り返し使う”資源循環型社会に転換する必要があります。
また東京への一極集中の是正や肥大化した第三次産業の見直しも必要かと思います。
それは、今を生きる私たち世代の責任かと思っています。
<地域のまちづくりにも尽力>
地元松が丘の自治会の役員を約10年務めました。街づくり委員会の座長として、松が丘の地区計画をまとめ、平成14年には「住民主導のまちづくり」として自治会が国土交通大臣賞を受賞しました。整然とした街並みの形成に少しはお役に立てかなと思っています。
<これからは社会還元活動に全力>
定年退職後これまでの経験を活かして、大学教授等勤めてきましたが、今後は、フリーのジャーナリストとして、引き続き社会正義実現のために努力するとともに、死に損なって生かされた命を、感謝と謙虚な気持ちで、福沢諭吉翁の心訓にあるように「世のため人のため」
、“社会還元”に全力で取り組む覚悟です。
中でも異業種の仲間と20年前から行っている「子どもの教育支援」活動は、今後も力を入れていく所存です。
三田会の活動はこれまで、仙台、いわき、北九州、関西、名古屋の各三田会に関わりました。所沢三田会でも地域社会の発展に寄与できる活動には積極的に参加していきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。
(感想)
今般会員紹介欄にご投稿頂いたのは、長らく災害や事件等の大きな出来事の報道の一線で活躍されてきた齋藤会員です。
これまでも、ご本人より直接お話を聞く機会が多々あったのですが、いつも熱く語られる話につい引き込まれ感心することしきりでした。
今回改めてご投稿頂いた記事を読ませて頂き、大変納得がいきました。
絶えず鋭く現実を直視、検証を重ね、強く立ち向かう姿勢は、流石ジャーナリストの面目躍如と言ったところでしょうか。
頂いた原稿は、紙面の限りがあり、言い尽くせない話がまだまだありますので更に興味ある方は是非ご本人に直接お聞き頂ければと思います。
今後とも、まだまだ社会還元に全力投球とのことですが、健康に留意され三田会の活動も含めて色々な分野での一層のご活躍を祈念しております。
記 松尾 基昭(S47経)