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わたしのファミリーヒストリー

 一色晃造(S38経)


新コロナ禍の中で巣篭り生活が続き、家系図などの資料を子供や孫たちに引き継ぐべく整理をしていたところ、杉本会長からホームページへの投稿依頼がありました。拙文ながらその一端を「わたしのファミリーヒストリー」と銘打ってご披露させていただきます。



1263年に生まれた一色氏の始祖


始祖一色公深は吉良庄一色(現愛知県豊川市)に居住しその地名をとって「一色氏」を名乗りました。公深の先祖は清和源氏の血を引く足利氏の一族です。足利氏は栃木県の足利に住んで足利氏を名乗りました。公深はこの足利氏の三代目泰氏の婚外子として弘長3年(1263年)に生まれたと伝えられています。公深は故あって吉良庄の地頭職であった母方の桜井家で養育され、その職を継いだものと思われます。その後元応元年(1319年)に父・泰氏の遺領総州下川辺庄(現埼玉県幸手市)の地頭職につき一色の地を去ります。


 一色氏はこのように公深を祖として継がれていきましたが、大別すると京都系の一色と関東系の一色に分かれます。京都系は一色家の主流で有力守護大名、赤松・山名・京極の諸氏と並んで四職家の一つに数えられ室町幕府を支える重臣でした。一方関東系一色は室町時代に関東以北の地を統治するために設けられた鎌倉公方その後の古河公方の重臣として下向したものと思われます。私の先祖はこの関東系一色に連なることが記録されていました。


 「一色」という姓は、荘園制度によってその地名は甚だ多く、従てその地名に由来して一色氏も数流あるそうです。昭和55年(1980年)11月に一色姓を名乗る方々が50人ほど集まって「全国一色同族会」を結成しました。父がその発起人の一人になっていた関係から私も駆り出されました。同族会結成式の模様は全国紙の地方版(所縁の愛知版、埼玉版)並びに歴史専門雑誌などで報道されました。当時の登録会員数は百数十名、地域は北海道から九州まで分布しています。同会の活動は会報の発行が中心でしたが幹事役の高齢化・死去に伴い現在は休眠状態となっています。



私の先祖 “幸手一色”


私の先祖にとって所縁のある幸手市は埼玉県北東部に位置しています。東武日光線幸手駅を下車し徒歩数分の場所に稲荷神社があり、幸手市の史跡「一色館跡と陣屋稲荷」と書かれた掲示板が設置され次のような記載があります。


「ここは古河公方足利氏の家臣一色氏が館をかまえていた跡といわれている。

一色直朝は天文年中(1532~55)に、足利晴氏、義氏にしたがい、のち田宮庄(幸手)に住したという、直朝の子の義直も幸手に父とともに住したが、小田原の北条氏没落後は徳川家康に仕え幸手庄のうちにおいて5,160石余の領地を与えられている。陣屋稲荷は別名一色稲荷とも呼ばれ一色氏の守り神として祀られた氏神であると伝えられている。」


この掲示板に記載されている一色直朝・義直は私の直系の先祖です。義直は幸手領内に徳川家康から5160石の知行地を与えられ以降明治維新まで旗本として処遇されました。義直の後継の直氏の時に知行地替えが行われ、下総国相馬郡木野崎村(現茨城県守谷市)へ移り住みます。その後も変更があり長篠の戦いで知られる三州設楽郡長篠村(現愛知県新城市)が最後の知行地となりました。このように短期間で幸手の地から離れていくのですが“幸手一色氏”と言われています。家系図によると私は義直から数えて15代目になります。また実家には一色稲荷を祀った神棚があったことを記憶しています。




高祖父、曾祖父、祖父のこと


 私の高祖父(曾祖父の父)一色直休は、甲府勤番支配・長崎奉行・勘定奉行など江戸幕府の要職を担い、その後御三卿の一つである田安家の家老を勤め、安政2年(1855年)に没しました。

 曾祖父一色直記は、丹後守(たんごのかみ)と称し、寄合衆として大名同等の処遇を受けていたので江戸城(殿中)に席を与えられて諸儀式に参列でき、鉄砲隊長の任にありました。幕末慶応4年討幕の勅が下り官軍が江戸に迫る危機に際し将軍慶喜の命を守って部下を統御し静かに帰順しました。その功によって明治政府から厚遇されたようですが明治11年に没しています。

 祖父一色健郎は分家の次男で婿養子として本家を相続しました。頭脳明晰で体格も良く(5尺7寸、21貫)信望も厚かったと聞いています。当時住居のあった巣鴨町の初代町長、その後東京府会議員となり政界入りを果たします。更に第1回目の衆議院選挙(明治23年)に立候補し落選します。また事業としては、巣鴨で牧畜・乳業を、知行地であった三河で製茶業を営んでいましたが武家の商法の見本のように他人任せの経営でいずれの事業も不振に陥りました。父は、「二頭立ての馬車に乗り颯爽と白山通りから東京府庁まで蹄の音高らかに登庁していた得意満面の姿を頂点に落伍の坂をたどる始末となった。」と話していました。

 祖父は直記の長女(重)との間に2男1女を儲けますが重が早逝し、重の妹(直記次女の錠)が後妻となります。後妻との間に1男4女が生まれ、この1男が私の父(嶺雄)です。父は明治35年(1902年)に一色家の3男(末子)として誕生しました。



その後の歩み


 父の長兄一色宣(あきら)は異母兄で父より25歳も年長です。生来豪胆でかつ国粋主義者だったそうです。ロシアのウラジオストックの貿易商社に18歳から24歳まで勤務し、日露開戦時には陸軍の通訳官に就任、また特務機関にも配属されて日本軍の勝利に貢献したと聞いています。日露戦争の水師営の会見ではロシア語の通訳をつとめその後も中国はじめ極東地域で活躍し昭和10年ハルピンにて病死しました。死去に際しては「名物男、一色北馬君逝くー「国家に終始した一生―」との見出しで全国紙に報道されました。

 父は一色家も没落の道を辿っていたころに誕生しその後麻布中学に入学、大学進学を目指していました。兄たちは自由奔放にそれぞれ好きな道を歩み、祖父母も苦労知らずの生活を送っていました。それだけに急に来た貧乏暮しは戸惑うばかりであったようです。父が祖母について、「母はお姫様育ちだったので買い物もできなかった。買い物に付き合ったときに店員に財布を渡して『この中からお金を取って頂戴』と言うので困ったよ」と語っていたのを思い出します。事業の倒産で家屋敷や財産全てを手放し結局は実業家に嫁いでいた娘(叔母)に世話になる破目になります。そのような中で父は早期に自立することを目指し、中学を中退して当時築地にあった工手学校(現工学院大学の前身)の機械科に転学しました。同校卒業後鉄道省に入り大井工場で技師として勤務します。そして20歳で母親を、24歳で父親を亡くします。昭和8年南満州鉄道(満鉄)に出向となり終戦まで勤務しました。


 〔閑話休題〕

東京都千代田区に神田錦町という地名がありますがこの「錦町(にしきちょう)」は当地に一色家の屋敷が2軒あったことから過去に「二色町」と表されていたという説があります。本家(私の先祖)と分家の屋敷が江戸時代の地図に並んで記載されていました。

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