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メディアとしての福沢諭吉 読後感

  • 山本 健(S32 政)
  • 3 時間前
  • 読了時間: 10分

慶應義塾を卒業した我々にとって福沢諭吉は言うまでもなく我々の師匠であり偉大な先祖でもある。

この本は我々を啓蒙する良書である。日本が侍の時代から文明開化の時代に移るまさにその時に  政府国民一体となって共感する西洋に追いつけと言う思想を植え付けた。

幕末いち早くその語学力を生かし現場見聞したこと、また次に日本のあるべき姿を解いたことなどをベストセラー本で紹介しさらに新聞論説で繰り返し言ってきた。

 学生時代の自分は恥ずかしながら浅学であり福沢の言う「天は人の上に人を造らず」を人間平等の標語として解釈していたが、その後「学問のすすめ」を読み、この言葉に続きがあることを知った。それは「天は人の上に人を造らずと言うが学問を収めた人間とそれをしなかった人間には格差がある。将来人を使う人と使われる人に分かれる」と言う趣旨であった。は

卒業後数十年経ってわかることはたくさんある。師の言葉もこの本を読むことで多くを学んだ。

筆者都倉氏には2回にわたり当会で講演していただいたが、さらに詳細なこの本を世に供されたことを感謝しつつ読後感を紹介したい。

以下、膨大な本書内容をたどりながら趣旨を伝え、愚見を交えつつ、感想を記したい。

 

 ご存知の通り、慶應義塾は幕末から創設され、明治4年頃、今の三田山を手に入れ引っ越した。これについては、「福翁自伝」に面白いいきさつが書いてある。時価の数百分の一、五百円ほどで払い下げを受けたくだりである。明治10年頃「西洋事情」がベストセラーとなり、「時事新報」発行、その論説を弟子スタッフとともに書くことで国民を啓蒙し近代日本の基礎を築いた。この間のメディアの利用は先駆的であり、今現在から振り返っても、よくここまで将来を見通したと思う部分が豊富である。時事新報は、当時の塾の立場を示す意味もあったが、その後の流れで日本国の意思の基本を導くものとなっていった。福沢だけでなく、その意を汲んだ今で言うプロジェクトチームのメンバーも論評を書いた。民間の立場で情報戦を展開した。例えば福沢本人が「国会開設の機運が燎原の火の如く燃え上がったのは少し怖くなった」と言っているのは納得する。現在塾からも日本を導く思いが出てもおかしくないと思った。筆者都倉氏は福沢が日本の独立を維持する体制を作る。そのための民衆先導を自主的な民間活動で行ったことに特異性があったと説く。そしてこれが彼の後半生のたゆまない日常だったと解釈している。


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写真のイラストは西洋事情の扉として紹介されている。飛脚が世界を駆け巡り、そこに文明の象徴が描かれ、まさにメディアが国家的な意思伝達手段としての役割を示す嚆矢である。150年先を見つめるような洞察力、情報伝達の世界、そのスピード、交通による世界一元化を予想している。外人の顔をした飛脚が、張り巡らされた電線の上を飛び歩く。ユーモアを含む暗示的な図案であり、今ネット時代と驚くほど重なるものである。このカットは、この本の主題と福沢の主張を見事に表している。

                 

 本文は、福沢の人となりの紹介から始まり、その言説、意見を交通に見立てた文明の普及、外交等の紹介、さらに時代ごとの出来事に対する意見解説を紹介し、その意図を解き明かすことをテーマとしている。いずれも日本に影響を与えた論説であり、その解説を丁寧にしてくれている。

 序章では、血の交通と題し雑婚の奨励が書かれている。国内外での身分や差別を解消するのに雑婚が有効であるとする。もともと武張る事の嫌いな平和主義の福沢であり、教育においては服装に至るまで権威主義を嫌っていた。宗教、漢学儒教思想も改革すべきとと言っていた。自由活発な外国人に学べ、積極的に海外移住もなし、日本人のものづくりの優秀性を持って西洋に追いつこうと言う論調を筆者は解説している。

面白いの「文明にはお金がかかる」と言っているところで

従来、儒教的日本人は金儲けが下手である。だから、塾出身者は将来、民間、特に金融方面に進むことを奨励している。これはいまだに塾生の就職、我々三田会員の職歴にも現われている。

しかし西洋から文明の形は真似ても、宗教など精神的なものは師匠とすべきではなく、この点からキリスト教を無制限に奉じるのは良くないと言っている。これは今日の宗教+政治の混同に戒めとなろう。そして外交面では清國強大化を警戒している。日本は西洋に学んだ国家の力を蓄え備えるべきであると言う。まさに今日の日中諸問題にも援用できる警句である。

第一章の最後は、塾生の服装について、「身だしなみへの配慮は、まず外見をきちっとして、さらに精神を整合する」と言う。国家的にも外形を固め、精神的自信、独立を思う国民を育てる気持ちの現れであると筆者は説いている。ここではいわゆる慶応ボーイのスマートさの根拠を見る気がする。

 第二章以降各論に入ると、明治中期における日本の出来事から世論を導く卓見を詳しく紹介されている。世に渡る出版物で発表された福沢の発言を筆者は広く取りまとめ分析している。そして時事新報がやむなく廃刊するときは、独立自尊を基本とした新聞言論はあくまで中立であり、毅然として主義主張を述べるのがその責任である。これを守れない者は犯罪者である。とまで言い切っていることを伝えている。今日ともすれば左がかって揺れ動く一部大新聞、マスコミ、への警鐘となろう。

 この部分、時事新報の主体性を見事に展開し、福沢説に統一して分析をした上、近代日本の歴史に有意義と断じた筆者に共感する。

福沢の2大事業は慶應義塾の創設と時事新報の発行である。議論の展開は時により変化があっても、その時代日本は何をすべきかと言うことを常に投げかけていたと思う。福翁自伝を読み返すとここがよくわかる。もともと福沢は若年大阪適塾の頃、すき焼き風景などに見られる軽犯的いたずらや本音と建前を使い分けた偽手紙で人を助けたりした、ざっくばらんな親しみやすい人柄だと描かれている。格式張ったことが嫌いで、フランクに塾の生徒とも交わっており卒業生からも慕われていた。そして「慶應義塾は塾生と共有の社中であり同志と共にある」と言っているのは、現在の卒業生パーティーに通じる。これは塾だけのイベントである。清家前塾長が、東大総長との対談で「我が校は卒業生と一生つながっている」と自負していたのは誇りであり、ここに福沢精神の伝統を感じる。

また、塾生に対し、福沢が「政治熱に騒がず、社会全般を見て学べ」と解くことは時流に乗った。戦前教科書に採用されたことで、戊辰戦争の時、上野山の大砲の音が聞こえ、生徒が騒いだときに動ずるなと諫め、「君たちは勉強をしておれば良いのだ、」と収めたことは広く当時の小学生は覚えている。それは後の安保闘争の時の塾生の姿勢にも、引き継がれていた。官によらず、民を起こす、そして国を起こす、痛快である。今でも塾の就職傾向にも現れている。のち国会が開設されれば「言論な士より商売の士が議員には必要である」、「多情の政府は多情な老婆となって国民の私権に立ち入りすぎてはならない」「引退議員は飴を舐めて孫と遊ぶだけでなく、実業の経験を生かし、広く商工界に貢献すべきである」とも言っている。この最後のところは今の我々に少し耳の痛いところでもある。

 4章から5章に入ると、明治中期の国内の出来事を新聞で取り上げ、そこに国民の進むべき道を示したことを解説している。例えば、紀州沖で沈没したトルコ軍艦について地元民の丁重な対応が、今でもトルコ国の親日感として残っている。平和な時代で相撲の当て物や風船曲芸などの娯楽にも紙面を割き、後の競馬、宝くじ、遊園地に通じる民間の隆盛を楽しんだようだ。又コレラ対策として、予防義援金を集めているのは、今日のコロナ騒動や震災義援金を連想するが、いずれも時事新報が先頭に立ち一番多い献金を集めた。新聞が積極的にリーダーシップを発揮する通例を作った。これらは現在まで引き継がれており、世論体制をつくる福沢が単なる思想家でなく実践化であり、同時にお金だけでなく、徳義心を呼び起こしていることを筆者は解いている。

 五章以降は、宗教関連やアジアを中心とした国際問題に目を向けている 

 この頃、日清戦争が勃発しているが、福沢の対応は比較的クールである。ただ国家の方針としての清国との戦争であるかゆえ

「国民は献金をして参加し、国の威信を内外に高める役目を全うしたほうが良い、但しこのことが政府を応援するものではない」とした。災害義援金と同様、国家に対する民衆の心情のあり方を醵金と言う形で実行する認識を新聞メディアを通じ、拡散した。ここは筆者が「教育者福沢の根底に終始見え隠れするものであると断じている。

第7章では宗教対立のお墓の問題を裁判詳細に至るまで詳しく書いている。ちょうどキリスト教乱入の危機感があったころで、福沢にその暴走を戒める気持ちがあったのか「趣旨の是非は問わぬが布教において政治に影響するのは良くない」と言っている。日頃、西洋から教わるのは文明の形であり、精神は我国独自のものであると言う持論と合わせ興味深い。現存の一部宗教集団への戒めともなろう。

 最終章にいたり、日清戦争を挟んで、清国、朝鮮に言及している。

同じアジア人だから一緒にやろう。しっかりしろと言う気持ちを含め両国と歩調を共にすることで、西洋文化に遅れないようにしたいが、現実的には日本独自で進むべきであり、対外的にもその姿勢が必要である。朝鮮国内の革命も、心情的応援をしたがダメであった。朝鮮王子義和君は、明治28年から2年間、来日して義塾に留学した。幕末文明開化をした日本を手本として皇室中心の近代改革を期待して応援したが残念ながら実らず、本人は2年後に米国へ渡った。様々な困難があったが、福沢は朝鮮を愛した。朝鮮にも文化交通を期待し、多数の留学生も塾で学、

  

だいぶ前「三田評論」に塾監局前で撮った卒業集合写真が載っており、右すみに弁髪とチョゴリ姿の学生がー人ずつ写っていた。両国との付き合いの難しかった時期に敢然としてアジア将来のため、その逸材を育てた福沢の意思、懐の深さが見えた。   

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終章での筆者都倉氏のまとめは有意義である。すなわち

1、福沢研究をメディアの観点で捉えるとわかりやすい。

2、福沢の主張主旨は「わが党の士(塾員)は常に気品を持ち、自ら考え、行動する。「独立自尊」である。

3、「人間は禽獣の世界のように殺し合いをするが、正しい戦争というものはない。未来に向かい、人の本性を高め育てることに期待する。」とまとめ、そこから現在に通じる意を汲み、さらに福沢研究を深めたいとしている。

 私自身この書を読んでもっとも感じたのは、アジア人が連携を持って、欧米人に対抗し、引いては、世界人類すべて平和になり、国境や人種、性別、差別なく、幸福に生きることを念願としていることである。この教えを教育の場で我々に染み込ませてくれたこと、今もなお塾員として、その隅に居させてもらえることに感謝している。

師の教えは本人肖像が長く日本国の高額紙幣の写真に畏怖を持って採用されてきたこともそれを証明している。

「西洋に追いつけ追い越せ」と言う文明開化の勧めが富国強兵として軍国主義に利用された部分もあったが、心底は平和主義である。余談だがもし時を変え、福沢師が「原爆投下」のことを知ったらどう思うだろう。なにを説いてくれるだろう。

 我々自身は所々に引用させてもらった現在の塾生塾員にも通じる教えを奉じ、次世代にもつながる福沢思想の普及の役に立ちたいと思う。この意味で現在我々三田会がやってきていることは意味深い。各員の親睦、地元での文化向上の寄与、塾、塾員への配慮などで今後末永く続く事を信じ願っている。

 

                        文責:山本 健(S32政)

 

 

 

メディアとしての福沢諭吉

都倉武之 著

慶應義塾大学出版会           

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