~せめて下手の横好き程度に~
【早や合点して迷い込んだ世界-川柳入門教室】
サラリーマン川柳に憧れてJASS(日本セカンドライフ協会)傘下のサークル「川柳入門教室」の門を叩いてから10年以上が経つ。42年間勤めた会社を退職し自由な毎日が退屈になりかけたとき、気に入らない政治や社会現象を風刺して他人に迷惑を掛ける事なく自由な自分を楽しみたいと思い、美人のようにさえ見えたサラリーマン川柳の楽しさに魅せられての「川柳入門教室」入会だった。
ところが講師や先輩会員の説明によれば、川柳にはいくつものジャンルがあってサラリーマン川柳はその中の一つに過ぎない。句会を主催する吟社や川柳の手ほどきをするいわば予備校のような存在が沢山あり、それぞれが目指す川柳の狙いや仕来りやルールを持ってやっている。サラリーマン川柳を中心にやっているグループはあるかも知れないがあまり聞いたことがないと。つまり「川柳入門教室」で勉強するのはサラリーマン川柳ではなく、当時の私にとっては大して面白くもおかしくもない期待外れの川柳だということが解かった。教室には憧れの美人はおらず出鼻をくじかれた思いだった。教室(一回半日4時間)は講師を招いて月一で開催され、約20人の会員が講義と、宿題として提出した川柳の評価と助言を受ける形式で運営されていた。
【川柳という大衆文芸】
川柳には吹きだすようなおかしさを覚える句からゲラゲラ笑う句やクスッと笑うような句、さらには笑えないが人情的な味わいのある句など多種多様だが、16代川柳の尾藤川柳氏(初代は江戸時代中期の柄井川柳)によると穿(うが)った見方から生じる風刺やウィットに富む川柳ならではの笑いが大事で、単なる言葉遊びやダジャレで笑いを誘う句は、ユーモアの仕掛けが内在していてもそこだけに終始するのは「狂句」と呼ばれ、川柳の一部に過ぎない。川柳はもっとスケールが大きい豊かな文芸だ、と。
1.そこで川柳のジャンルに関して、最近ネットので「ショーゼンさんの川柳いろは教室」という記事で杉山昌善氏が川柳のジャンルを大きく3つに分けて解説しているのを見かけたので、以下にそのまま紹介する。
(1)伝統川柳 人情の機微を詠む
日常生活や風俗を客観的に捉えるもので、
これは「一般川柳」とも言われ、作者が見た
人情の機微を描き出すもの。
(2)時事川柳 時代を鋭く切り取る
社会や政治を批判したりする川柳がこれ。
新聞が展開する川柳の多くは時事川柳で、
風刺の精神が善しとされる。
いかに時代を鋭く切り取るかを競うもの。
企業が募集している「サラリーマン川柳」や
「IT川柳」、「介護川柳」などもこの部類。
(3)現代川柳 作者の喜怒哀楽を詠む
川柳の素材として他人を捉えるか、自分を捉えるか。
自分発の川柳といわれる現代川柳は、作者自身の
喜怒哀楽を捉えるもの。”人間クローズアップ”こそが
現代川柳の醍醐味である。
このことは、私が入会した教室では上記(1)伝統川柳と(3)現代川柳に分類される川柳を勉強するという意味だったことになる。
2.同じ五七五で成り立つ俳句と川柳の違いについては、教室で次のように教わってきた。
俳句が花鳥風月を詠み、季語を必須とするのに対し、
川柳は人間を詠み、今を詠む。事物や現象を詠むときはそれらを擬人化し、現在形で詠む。
この両者については俳句の方が文学として高級だとか、川柳の方が自由で大衆的な文学だと主張する人もいるが、それぞれの愛好者の好みに合えば楽しく付き合えるのではないかと思う。
川柳の本質といわれる穿ちという言葉をある辞書は「人情の機微を巧みにとらえること」と解説している。また達吟家の阿部勲氏の著書『川柳の作り方』には、「世間一般の常識や偏見にまみれた見方を裏返してストレートに物事の本質を見せることがウガチの発見につながる。」と説明している。やはり訓練が要る。
五七五の定型についてはそれぞれの吟社などがよって立つ伝統に基づいて、定形厳守を基本とするところもあれば比較的緩やかなところもあり、何でもあり的なサラリーマン川柳などが普及した影響で逆に定型を守りつつ日常茶飯事を上手に詠み込むことが大切と主張するようになった吟社もあるとか。
なお、句を作るにあたっては、題が指定される題詠と自由な題材で詠む雑詠とがあるが、いずれの場合も作者の意図を読者に考えさせることが大事で、17音に全てを表現してしまっては面白味が読者に伝わらないと教えられる。また川柳の世界は雅号を持っている方も多いが、苗字ではなく名前で呼び合う習わしがあり、親しくなっても苗字が判らないことも多い。
【句会は選者のもの】
全国には百を超える大小の吟社が主催する句会が月一など定期的に開催され、吟社を統括する組織や、文科省や地方自治体などが主催する川柳大会では高位入選者に商品が授与される。私も誘われていくつかの句会に参加した経験があるが、複数(多い時は10近く)の句会を毎月掛け持ちで参加する川柳家が結構多いことに最初は驚いた。中には吟社の代表者や本を何冊も書いている人もおられ、句会はプロやセミプロのような川柳家から愛好家までが入り混じった世界である。
「川柳入門教室」の講師がある吟社の主催者の一人であることから誘われて私もその吟社の同人として数年間参加していたが、健康上の理由やコロナ禍が原因で昨年退会した。その吟社の句会にはNHK学園などで川柳の講師を務める方や川柳の全国大会で選者を務めるような達吟家も何名か常連で参加されており、いろいろな事を教わったりもした。句会で私が一番苦手だったのは選者を務める事で、輪番で半年に一回程度選者役が回ってきて苦労した。理由は二つあった。一つは、約40分の時間内に参加者が無記名で提出した300枚前後の句(句箋)の中から天位・地位・人位各1句と客位を5句及びそれに続く秀句を20句(合計28句)を順位をつけて選ぶ作業に時間が足りなくて焦ったこと。二つ目は、全国でも名前の売れた達吟家の方々の句の優劣を自分が決めて評価することに恐れ多さを感じたことである。ただ後者については、業界に「句会は選者のもの」という暗黙の了解があり、どの句を選ぶかは選者の特権であり、選の結果に対しては参加者を含めて誰も文句を言ってはいけない、という習わしに救われてはいた。ただこの事は、いかにハイレベルで素晴らしい句でもその意味や良さを理解できないと選べないので、未熟な選者にとっては心理的なプレッシャーになる。
【達吟家の魔術】
1月に発表された第34回「第一生命サラリーマン川柳コンクール」優秀100句には、サラリーマン川柳という土俵を離れても十分評価されると思われるような句も散見される一方、教室で勉強している川柳は面白くないと感じていたのは私の誤解で、それは作句技術の幼稚さに起因しているに過ぎないと気づいた。尾藤川柳氏の仰る「穿った見方から生じる風刺やウィットに富む笑い」を表現できれば本当に面白い川柳が出来上がるということで、それには才能(センス)に加えて弛まぬ努力が求められるのだが。努力によって貯えた引き出しの多さが作句能力を高めると言われれば納得せざるを得ない。優れた表現を見るたびに参考にしたいとメモを取ったりするのだがすぐに忘れてしまう悲しい自分と向き合ってもいる。同じものを観察しても達吟家の手にかかるとサラリーマン川柳ではなくても大変面白く深みのある秀句になることが解かる。以下は講議の中で紹介された一例で、すべて山本桂馬氏(2015年没)の題詠。抜群の面白さがあり、自分にも作れそうな気がする句があっても中々そうはいかないところに達人の魔術が隠されている。
・俺の子だそんなにもてるはずがない 題「血統」
・母のほか女泣かせたことがない 「泣く」
・結婚を餌にするのは妻で懲り 「アタック」
・手が触れて昔はその先があった 「引き金」
・二枚目にふられてうちに来たらしい 「決める」
・慰謝料の相場を知ってからは堪え 「時価」
・シリコンに触ってすみませんでした 「手探り」
・お茶だけでいいと言ってるのが聞こえ 「略式」
・読まれてるらしい日記に妻を褒め 「らしい」
・Mを見てるとLLもございます 「貫禄」
【「川柳入門教室」のその後と私】
現在私が参加している「みんなで川柳」と言う名の川柳サークルはJASS傘下サークル「川柳入門教室」の末裔で、句会を開催して一般の参加者を受け入れる吟社ではなく小さな勉強会である。令和元年7月にJASSから独立時して改名した勉強会で会員数は20人前後で以前と変化なく、勉強会終了後は出席者の8割程度が会場近くの飲食店で約2時間の懇親会を楽しむのが恒例となっている。当初は講師から「あなたはよく我々がやっている川柳とサラリーマン川柳との境界線へボールを投げ込んでくる」と言われたことが今でも耳に残っている。教室の中心は互選(人気投票)による勉強会で、宿題に基づいて各会員が提出した川柳を全員で互選し、最後に講師が一句ずつ評価コメントしながら秀句を選出して終わる。また正月には「十分間吟」というゲームをやる。その場で出された題について参加者全員が10分間に各3句作って提出するゲームを6回繰り返し、1時間に6題18句を提出し最後に講師が一題ずつ評価して順位を決める。
元々セカンドライフを楽しむ同好家の集まりでその後高齢化の進展で毎年一回行っていた泊りがけの教室(吟行会)はこの2年間実施できていない。またコロナ禍の影響で都内で一堂に会することが叶わず、昨年5月以降はパソコンを活用してのインターネットによる「誌上教室」に切り替えて凌ぎ勉強会を維持している。
最近テレビ番組の「プレバト」が人気を博しており「川柳より俳句のほうが文学的にも高級なのに君は何故川柳だけをやっているのか」と言われることもあるが、庶民の匂いが漂う句の方が田舎育ちの自分には似合うと思っており、性格がよくないのか穿ちや皮肉の効いた句に出会った時の胸のすく思いは堪えられない。10年余が経った今の私は、非力ながらも身の回りに新鮮な題材が沢山あり社会や政治を風刺したり人情の機微を詠む楽しさを味わえる時事川柳(時事吟ともいう)におのずと意識が向かう。他方時事吟はその時の話題を題材にするので時間が経つと新鮮味が消え句の意味が解らなくなることが多い、という理由で句会では抜かない(意識的に選ばない)選者を偶に見かける。それでも私は作るのが他のジャンルより楽しい時事吟と戯れることが多い。恥ずかしながら最近詠んだ句の幾つかを披露して終わりにしたい。(題詠は教室や句会で出された題にもとづくもの)
題詠 大揉めの夫婦家裁で握手する 題「すったもんだ」
ごめんねが言えず手酌に攻められる「ごめんね」
作り笑顔で夫の親を介護する 「執念」
神棚の隅でアマビエ昼寝中 「伝説」
仕事場に徳利があるテレワーク 「時事吟」
時事吟 お焚き上げへそっとコロナを忍ばせる
行き先のないGoToで年が明け
後手後手に護られているわが命
五輪準備やってますよと狼煙あげ
代替わりしても安倍流花開く
日本でも2月17日にコロナのワクチン接種が始まりました。世界で八十数番目だそうです。
皆様、寒さとコロナの挟み撃ちをはねのけ、新しい世界を迎える準備をしましょう。 了
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