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慶応義塾史展示館をたずねて

山本 健(S32政)


先月の総会が平穏に楽しく終わり、帰路当日講演していただいた都倉さんと話す機会に恵まれました。その席で戦争と塾関連の特別展示があることを聞き、早速足を運びました。


7月初めで既に酷暑が始まっており、猛烈な日差しの下でしたが、数人の三田会仲間とともに学生の頃、軽く歩いた駅からの長い道のりをたっぷりと大汗をかきつつたどり着きました。

当時の幻の門がアカデミックで荘厳な雰囲気を持つ立派な建物となっていることに驚きました。急坂もエレベーターで迂回できたのは幸いでした。図書館の3階が展示室であり、これもエレベーターで案内してもらいました。


展示は多岐に渡り、福翁自伝に沿う歴史順に展示されています。刀を見ると、福沢氏が幕末の暗闇の路上で武士とすれ違った時、互いに恐怖を感じた下りが思い起こされます。



アメリカ土産の乳母車は自伝などに書かれています。早慶戦野球挑戦状は、当時、野球日本一は俺だと主張した両校の気概がかんじられます。

同行した早稲田OBのかたも共感されていました。互いにライバルとして認め、競り合い、いわば相棒付き合いがこの辺から始まっていますね。

棒高跳び大江・西田メタル写真


ベルリンオリンピックでの有名な2位、3位メダルが早稲田の西田修平氏の分も併せて同時に展示され、復元状態になっています。

友情のメダルとして中学校の教科書に乗っていた有名な話です。


ギターを持つ集合写真


戦争中にこのような写真を撮ったりすること自体が国にへつらわない自由闊達な塾らしいものです。

疎開児童の集合写真戦争中、児童将来の保護のために都会の小学生が田舎に集団で疎開しました。慶応は修善寺に行ったようです。

私の母校では同じ伊豆ですが、伊豆長岡に行きました。そして、数年後修学旅行で泊まったのは全く偶然ですが、この同じ旅館(野田屋)でした。

写っている女将には多分お会いしてると思います。同世代なので、大学生の時知らずに合っているかもわかりませんね。


同行した岡田会員が言うには「塾歌作曲は海行かばと同じ作曲家の描いたもの」だそうです。荘厳な調べの中に同旋律を多く持つのは、国家の柱となる両者の共通の気持ちを重ね合わせたのでしょうか?

作詞は塾の歴史的偉人の演説からの引用と初めて知りました。

翻る旗を仰ぎつつ、学生の将来に期待する気持ちが彷彿とします。

戦時には、この曲を胸に刻み塾生として日本のため命を捧げた多くの先輩たちに溢れる敬意を捧げます。私事ですが、自分が数十年前挫折したとき、深夜誰もいない山に行き大声で塾歌を歌い、元気を取り直し、次の人生に向かう気持ちに切り替えたことがあります。それ以後塾歌は自分の恩人だと考えています。ここに改めて「海行かば」との同一性を見た時学生を鼓舞し、ときには悼む姿勢に打たれます。

塾と戦争の関連で言えば、私の8年先輩の水球部ゴールキーパーであった。塚本太郎氏が、学徒出陣で、特攻隊人間魚雷にのり海に散りました。偶然遺言が残っており、靖国神社にテープレコーダー保存されています。7月26日以降改めて展示される予定と聞きました。

塾の歴史その重みや深みを心に刻み三田の山を後にしました。



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