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所沢三田会 7月例会歴史研究会 座学


場所:新所沢公民館

講師:古郡俊幸氏(S38年政)

出席者:若松、柳、池田、黛、栗原、竹下、岡本、山本、盛山、柿原、一之瀬、新倉、安藤、一色、岡田、杉本、松尾、志賀、南、小野、伊藤(21名)


本日は小野幹事ご就任後初めての、そして久々の歴史研究会を座学の形態で会員以外の多数の方々もご出席を賜り開催しました。座学は会員の古郡俊幸氏を講師に現在NHK大河ドラマ「晴天を衝け」の主人公である渋沢栄一という時節にあった人物像を標記のテーマで行いました。古郡氏は深谷市出身で渋沢栄一の地元出身です。以下、講演の概略を記します。




 

: 渋沢栄一が歩いた道 :

 

渋沢栄一は大河ドラマのおかげでにわかに全国レベルで脚光を浴びておりますが、すでに一万円札の肖像画で注目を浴びつつありました。一万円紙幣は1958年(昭和33年)に聖徳太子の肖像(裏面:鳳凰)で発行され、26年後の1984年(昭和59年)には我が福沢諭吉先生の肖像(裏面:雉→鳳凰)で発行され、2024年には渋沢栄一の肖像画に代わります。福沢先生の一万円紙幣は都合40年という長期にわたって親しまれました。NHKが本年の大河ドラマで渋沢栄一をテーマとしたのは、従来あまり一般に知られていなかった人物が今後一万円札の顔となるので、国民に親しみを持ってもらうためなのではないかと推測しました。


渋沢栄一がなぜ一万円札の肖像画に選ばれたかと申しますと、これも推測ですが、明治政府が初めて発行する紙幣を司る紙幣局の初代局長に就任したからだと思います。


地図を開きますと、南に高崎線が走り、真北に利根川が流れるその中流域の村落が渋沢栄一が誕生した血洗島です。深谷の駅から北へ4キロで小山川と利根川に挟まれたところにあり、当時は武州血洗島といわれ、隣接して八基村がありました。当時の血洗島は現在の埼玉の北の果てにある静かな農村で、赤城おろしの砂塵が舞い、小山川がたびたび氾濫し水害がそのたびに発生しておりました。


血洗島という奇妙な名の由来には次の2説がりますので、ご紹介します。最初の説は、国定忠治が血の付いた刀を洗った場所であることから名づけられたという事です。次の説は、尾高家のある人の手を埋めたので手墓という地名から名づけられたそうです。


昭和48年に三つの村である八基村と新会村と中瀬村が合併して深谷市へ統合合併され、深谷市工業団地が有名で、東芝テレビ工場や日立金属などの大手企業が進出しています。渋沢栄一の大河ドラマ化は深谷市が町おこしの観点から積極的に協力しました。


この地域一帯は昔から一面ねぎ畑で、夏に植えて冬に収穫しますが、大変な重労働だったようです。このように畑の農産物が豊かで畑一反が水田二反に相当していました。


江戸時代には浅間山の大噴火による被害があったようです。利根川は物流の拠点であり、血洗島の中瀬河岸から利根川を使って江戸へ物資が運ばれました。後に鬼怒川水域と合流工事が行われております。豪農の田島弥平宅では蚕が盛んでした。そして、血洗島では藍染めが盛んで、渋沢栄一の実家も藍染めをしておりました。


またこの地域は赤煉瓦の故郷と言われており、明治20年(1887年)に上敷免村でレンガ工場が建設されました。生産された赤煉瓦は東京駅や慶應義塾図書館の建設に使われました。そして、渋沢邸は明治28年に作り替えられ、現在は深谷市所有し、渋沢記念館となっております。


渋沢栄一は天保11年(1840年)に農民の子として武州血洗島に生まれ、長寿を謳歌し91歳で鬼籍に入ります。安政5年(1858年)に千代と結婚し、その後千葉道場で剣術を習い、元治元年(1864年)に24歳で一橋家へ仕官します。3年後の27歳でパリ万博出席の為、フランスのパリへ派遣されます。パリにて身に染みたのは、事業の発展には株式会社形式がベストである事、そして平等がベストであるという事です。


明治維新後、徳川慶喜が静岡藩へ移封となり、一緒に従った旗本等の徳川武士を養うために、お茶畑が開墾され、その後日本一の生産量を誇るお茶生産地に変貌していきました。徳川慶喜に随行して静岡にいた渋沢栄一は勝海舟から明治政府への参画を誘われますが断っています。しかし、大隈重信の熱心な説得が功を奏して政府に仕える事となりました。そして、新札発行の責任者となったのです。そこで実感したのは紙幣の紙が必要との事であり、王子に製紙工場を建設しました。これがのちの王子製紙です。そして、その近くにある王子飛鳥山を愛し、本宅を構えました。さらに、日本の国際化を鑑み、横浜港の本格的な建設に着手します。それを請け負ったのが笹井万太郎です。


列強に伍して独立を維持するために実業面からの発展が必須と考え、商工業発展に尽力します。一方で政商を嫌う面がありました。昭和2年米寿のお祝いの席での演説で、「金を愛するために事業を愛する人間は多い」と政商を批判し、全人類を愛するために事業を起こしたとされます。まさに儒学の「仁」が経営哲学であり、経世済民をモットーとしました。


富岡製糸場は渋沢栄一が出資者となり、尾高惇忠が引き継ぎました。そして、秩父鉄道は地元の名士柿原家が主導して1908年設立し、渋沢から指導を受けます。さらに、これから西洋建築の巨大な需要が見込まれる為に煉瓦の代わりとなるセメント着目し、秩父の武甲山に狙いを定め、セメント生産に着手しました。これがのちの秩父セメントで、実に渋沢栄一の御年83歳の時で、ハチサン記念としました。また、渋沢栄一は人形外交を実行し、日米間で青い目の人形&市松人形の交換を行いました。


渋沢栄一は親から影響を受け、その教えを忠実に守りました。母からは「1人だけではダメです。みんなが幸せにならなければダメです。」との教えを賜り、父からは「自分の好きなようなやれ」と後押しされ、渋沢栄一という人物像が作り上げられました。


渋沢栄一は「一橋慶喜公伝」を執筆し、徳川慶喜の名誉回復に尽力しました。そのおかげで、徳川慶喜は公爵を授与されるまでに至っております。


埼玉県が誕生して150年で、名高い県立高校として浦和と熊谷と川越と松山があります。そして埼玉の三大偉人とは渋沢栄一、塙保己一(江戸期の国学者で総検校)、荻野吟子(日本初の医師国家資格保持者で女性運動家)で、いずれも利根川沿いの生まれです。


文責:伊藤芳康(S51経)

写真:南 博幸(S51法)

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