歴史研究会 目白台 視察5月例会
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素晴らしい青空に晴れ渡った連休明けの新緑に風薫る皐月の9時過ぎに所沢駅に12名が集合し、所沢駅から雑司ヶ谷駅まで地下鉄副都心線にて移動しました。雑司ヶ谷の地名は日蓮宗法明寺の雑司料(運営維持の為に割り当てられた田地・林野)に由来すると云われています。そして、8代将軍徳川吉宗が放鷹の為に立ち寄った際、「雑司ヶ谷村」と命名したと伝わっております。
最初に「鬼子母神堂」を訪れました。「鬼子母神堂」は前述の法明寺の飛地境内にある堂です。織田信長が今川義元を下し、美濃攻めに走り始めた永禄4年(1561年)に山村丹右衛門が現在の目白台のあたりで鬼子母神像を井戸から掘り出して祀り、天正6年(1578年)現在地に草堂が建立されました。本能寺の変(1582年)の数年前です。本殿は徳川幕藩体制が固められた4代将軍徳川家綱の寛文4(1664)年に建立され、相の間によって連結された正面の拝殿は元禄13年(1700)年建立という権現造の複合建築です。平成28年(2016年)に国の重要有形文化財に指定されました。
ここで指摘しなければならないことが二点あります。一点目は「きしぼじんどう」ではなく「きしもじんどう」と発音します。しかしながら、後ほど乗車予定の都営荒川線の正式名称である「鬼子母神駅」のひらがな標記は「きしぼじんえき」となっているのはなぜでしょう?お寺と駅名が不一致なのです。調べたらいろいろな説がありました。例えば、江戸弁で「ぼ」が「も」と発音されており、人々が「きしぼじん」と発音していたので駅名をそのまま踏襲した云々ですが、本当にそうなのでしょうか。
二点目は「鬼子母神堂」および「鬼子母神」の正式な表記は「鬼」の上の点、つまり角を表すとされる「′」がない字体なのです。だから、お寺の扁額や印刷物は全て角無しです。つまり、鬼ではないという事なのです。本堂は国が指定した重要有形文化財で、それを顕彰する碑がその前にあります。しかしながら、その碑には点がある「鬼」の字体、つまり角ありの「鬼子母神堂」と彫られています。なぜでしょう?加えて、都営荒川線の駅の正式名称も角ありの「鬼子母神駅」なのはなぜでしょう?一点目と同様にお寺といずれも不一致なのです。疑問が残ったまま進めます。
ここでお断りしなければならないことがあります。「鬼」の「′」がない字体は当用漢字には存在しないので、ワープロにも存在しません。よって、本文では角ありで書かざるをえない事をお許しください。
本尊は「鬼子母神」です。「鬼子母神」は仏教を守護する天部(ヒンズー教)の一尊で、夜叉毘沙門天の部下である八大夜叉大将の妻です。500人(一説には千人)の子の母であり、これら大勢の子を育てるだけの栄養をつけるために人間の子を捕えては殺して食べていましたので、人々の恐怖の対象でした。それを見かねたお釈迦様は、彼女が最も愛していた末子のピンガラを鉢に隠してしまったのです。彼女は半狂乱となって世界中を7日間駆けまわりましたが発見できず、とうとうお釈迦様に助けを求めました。お釈迦様は、「お前は多くの子を持ちながら一人を失っただけで、それだけ嘆き悲しんでいる。それなら、ただ一人の子を失う親の苦しみはいかほどであろうか。」と諭しました。彼女は教えを請うと「戒を受け、人々をおびやかすのをやめなさい。そうすれば、すぐにピンガラに会えるだろう」と申し伝えました。彼女は承諾し三宝(仏・法・僧)に帰依すると、愛する子が戻ってきました。お釈迦様は五戒(不殺生戒・不偸盗戒・不邪淫戒・不妄語戒・不飲酒戒)を守る事、そして施食によって飢えを満たすこと等を教えました。その後、彼女は仏法の守護神となり、子授け、安産、子育ての神として人々から敬われるようになりました。さらに、盗難除けの守護にもなりました。よって、その像は天女のような姿をし、子供を1人抱き、右手には吉祥果を持っているとされていますが、残念ながら拝顔はできませんでした。尚、吉祥果は通常ザクロで表現されています。
「鬼子母神堂」の土産物として売られているのが、江戸時代から有名な「すすきみみずく」で、ススキの穂を束ねて作られたみみずくの人形です。子どもの病気除けや健康を祈るお守りとして人気です。その昔、貧しさゆえに病気の母親の薬を買えなかった娘が「鬼子母神」に祈ったところ、夢の中に「鬼子母神」が現れて、「ススキの穂でみみずくを作り、それを売って薬代にしなさい」と告げました。娘はお告げの通りにしたところ、みみずく人形は飛ぶように売れ、そのおかげで薬を買うことが出来たというのが由来です。

境内には都指定天然記念物で、鎌倉時代で後醍醐天皇の世から現在に至る樹齢700年と云われる大イチョウがそびえており、子育て信仰を集めている事から通称「子育てイチョウ」といわれております。その横に田沼意次時代の天明元年(1781年)に創業した日本最古の駄菓子屋とされる「上川口屋」があり、現在の店主のおばあさんは13代目だそうです。創業当時は加賀藩前田家御用達の高級な「飴」を売るお店だったとのことです。関東大震災や東京大空襲から奇跡的に免れた当時の面影を残す貴重な木造建築です。そして、スタジオジブリの映画「おもひでぽろぽろ」に登場する駄菓子屋のモデルになりました。販促用のイラストにこの駄菓子屋そのものが登場しています。
樹齢400年以上の古木も残るケヤキ並木の参道に観光案内所「雑司ヶ谷案内処」があり、手塚治虫の常設ギャラリーが2階にありました。手塚が著名なアパート「ときわ荘」を出た後、1954年から3年間住んだのが参道のすぐ裏に現存する「並木ハウス」で、これらを記念してギャラリーができたそうです。「鬼子母神」を題材にした漫画作品「白骨船長」が読めるパネルもありました。
ケヤキ並木の先に都営荒川線の鬼子母神駅があります。早稲田行に乗車し、終点の早稲田駅で下車しました。徒歩5分程度で「肥後細川庭園」に到着します。同庭園は、目白台の自然を活かし、中央に大きな池を配した池泉回遊式庭園です。この地は、江戸時代中期以来旗本の邸地となり、江戸末期には徳川三卿のひとつである清水家の下屋敷となり、のち一橋家の下屋敷に転じました。幕末に、肥後熊本54万石の藩主細川越中守の下屋敷となり、明治以降は細川家本邸となりました。 昭和50年に文京区へ移管され、「肥後細川庭園」の名で無料一般公開されています。
先ず視察したのは、正門を入ると正面に鎮座する「松聲閣」と呼ばれる建物で、元々細川家の学問所として使用されていました。大正時代に改修を行い、一時期は細川家の住まいとして使用されていました。現在の建物は、歴史性を活かして保存・修復を行うとともに、耐震性を確保し、平成28年にリニューアルオープンしており、2階から庭園の全体像を楽しめます。

「松聲閣」をあとにして、庭園を回りながら丘を登り「永青文庫」にたどり着きます。歩きながらこの豊富な水源はどこから来ているのだろうという疑問が皆さんから出ていました。調べたら庭園に隣接する目白台の崖線から湧き出る地下水を池に導いているとの事です。

「永青文庫」は細川家伝来の美術品や歴史資料、そして16代当主細川護立(細川護熙元首相の祖父)の蒐集品など日本・東洋の古美術を中心に国宝や重文を多数所蔵する美術館です。文庫名の「永青」は細川家の菩提寺である永源庵(京都:建仁寺塔頭)の「永」と、細川藤孝幽斎の居城である長岡京市にある青龍寺城(勝龍寺城)の「青」から採られているそうです。明智光秀が天王山で敗れ敗走の途中で青龍寺城に籠る幽斎に助けを求めたのですが、拒絶され城門は閉ざされたままでした。光秀はやむを得ず山科経由で琵琶湖湖畔の居城がある坂本へ逃げ延びようとして途中の小栗栖にて農民兵によって殺害されます。
「永青文庫」では熊本城が先の大地震で破壊された状況、そして再建に至る詳細が展示されていました。驚いたのは今回のような倒壊は過去に何度もあったという事で、その都度大規模な再建がなされてきたようです。あの西南戦争で西郷隆盛軍が総攻撃をかけてもビクともしなかった加藤清正築城の名城でも地震のような自然災害には弱かったようです。熊本は歴史的に地震多発地域であることを知りました。
そして、待ちに待ったランチです。イタリアンの「タベルナ・アイ」で各自それぞれイタ飯を楽しみました。ちなみに名称の「タベルナ」は「食べるな」ではなく、イタリア語及びギリシャ語で「食堂」や「居酒屋」という意味です。

次に訪れたのはホテル椿山荘の「椿山荘庭園」です。この地は元々久留里藩黒田家の下屋敷でした。寛保2年(1742年)、上野国沼田藩(現:群馬県)から黒田直純が久留里城(現:千葉県君津市久留里)に3万石で入り、久留里藩を再立藩して、以降、明治維新まで9代にわたって藩主を務めました。そして、明治の初めに元徳島藩の岡本監輔(漢学者)の手に渡りました。ここで明治の元勲陸軍大将総理大臣の山縣有朋が登場します。西郷隆盛が決起して鎮圧された西南戦争直後の明治11年(1878年)、この地を訪れた山縣有朋は一帯の風光明媚な雰囲気を気に入り、東京の本邸として購入しました。
山縣有朋が命名した「椿山荘」というのは、江戸時代以前から目白崖線の上に位置する関口台一帯が椿の名所として名高く、「椿山」と呼ばれていたことに由来します。山縣有朋は造園にも造詣が深かったことで有名です。近代日本を代表する庭師として著名な京都の7代目小川治兵衛と組んで作庭した京都の南禅寺門前の「無隣庵」が有名です。廃仏毀釈の影響で京都五山の上位に位置する南禅寺は存続のために広大な境内の一部をやむを得ず手放さすこととなりました。手放された土地を当時の元勲や財閥がこぞって購入しました。そして、京都市民の飲料水及び水力発電のために琵琶湖から湖水を京都まで流す水路である琵琶湖疎水を建設しましたが、その湖水を自分たちの庭園にも引きました。よって、日本を代表する名庭園の数々がこの地に現れました。その代表格が山縣有朋の「無鄰菴」です。小川治兵衛は、周囲の自然や風景を庭園内に取り込み、自然主義の庭と称されるもので、滝を起点とする水の流れに独自の世界を築きました。
「無鄰菴」で小川治兵衛とタッグを組んで稀代の名園を京都に残した山縣有朋は、東京の本邸となる「椿山荘」では、当時、東京ではトップクラスの庭師として活躍していた雑司が谷の岩本勝五郎に依頼しました。庭園は、高低差14mの傾斜地に3段となって構成され、芝生、樹林、池が巧みに配されています。起源は大名庭園ですが、山縣有朋の指示で大きく手を入れた近代の庭です。庭園内の谷戸、そして隣接する芭蕉庵の2つの水源(湧水)から採水し、旧江戸川へと流れる構造です。このようにして、山縣有朋の庭園美眼は無鄰菴から椿山荘へと受け継がれています。
大正7年(1918年)、山縣有朋も80歳の高齢になったため、庭園の維持も困難となり、同郷長州の実業家で塾員の藤田平太郎(藤田財閥2代目)に譲渡されました。そして、山縣有朋は大磯に小淘庵作り上げ、余生を過ごしました。この小淘庵も岩本勝五郎の作庭です。
椿山荘の庭園の頂上に建つ三重塔「圓通閣」は、広島県賀茂郡入野(現・東広島市)の真言宗御室派竹林寺にあった塔を藤田が大正14年(1925年)に譲り受け移築したもので、室町時代の建立と推測され、国の登録有形文化財です。その後、戦災で建物や樹木を失いましたが、戦後、藤田興行が「緑のオアシスに」と1万本の植林を敢行し、現在の藤田観光の経営するホテル椿山荘へと発展します。
椿山荘の正面からバスに乗って神齢山悉地院大聖護国寺へ向かいました。天和元年(1681年)2月7日、五代将軍徳川綱吉は母である桂昌院の願いをうけ、高崎の大聖護国寺住持であった亮賢に高田薬園の地を与え、桂昌院の祈願寺護国寺の建立を命じました。同寺は真言宗豊山派(本山:奈良の長谷寺)の寺院です。天和2年(1682)護国寺本堂が落成した際、桂昌院の念持仏である唐物天然琥珀の如意輪観世音菩薩が安置され、その後絶対秘仏となりました。現在安置されている本尊は六臂如意輪観世音菩薩像で、願主は堀田正虎(出羽山形藩主)の母栄隆院とされ、元禄13年10月に寄進したと伝えられています。その御頭は恵心僧都(平安中期の天台僧で浄土思想の祖)の作とされ、身体はこの折、新たに作られたとされています。
仁王門をくぐり階段を上ると象徴的な存在である不老門があります。この門は京都の鞍馬寺の門を基本に設計されたそうです。やがて右手に「護国寺大仏」という2.5mの青銅製釈迦如来が迎えてくれます。お顔は何とも言えないアルカイックスマイルで思わず手を合わせてしまいます。元々筑波山護国院にあったのが廃仏毀釈で破棄されそうになったのを本山である護国寺が引き取ったのです。境内には富士塚の「音羽富士」があります。
その先に進むと、正面に本堂である観音堂が見えてきます。元禄10年(1697)正月、観音堂新営の幕命があり、約半年余りの工事日数でこの大造営を完成しました。元禄時代の建築工芸の粋を結集した大建造物で、その雄大な美しさは都内随一のものと賞され、しかも震災・戦災と二度の大災害にも襲われながら姿も変えず、江戸の面影を今に伝えています。
護国寺は幕府の祈願寺で、檀家を持たなかったため、明治維新後は後ろ盾を失い、経済的な苦境に陥りました。境内地5万坪のうち、東側の2万5千坪は宮家の墓所として豊島岡墓地が造営されました。これは明治6年(1873年)の明治天皇の第一皇子稚瑞照彦尊の薨去(死産)を機に、護国寺境内の東半分が皇族墓地とされたものです。また、西側の5千坪は陸軍用墓地となり、境内は2万坪ほどに縮小しました。現在、陸軍墓地は護国寺墓地の一角に整理されております。
稚瑞照彦尊の生母である葉室光子(公家・側室)も1873年に亡くなりますが、皇族墓地に入れず、護国寺境内に葬られました。これはお寺側が当時の政府高官へ働きかけ墓地の新設を認められたからで、のち、三条実美(公家)、山縣有朋(長州)、大隈重信(肥前)ら明治の元勲の墓所が造られました。
本堂の東側に田中光顕伯爵(土佐)の墓所を見つけ、その隣に立派な大隈重信の墓所がありました。福沢先生墓所の数倍大きく立派な造りでやはり、教育者と総理大臣の差かなと思いました。少し奥へ行くと極真空手創設者の大山倍達のお墓があり、インド人女性が二人してお参りしていました。実にインドにおいて極真空手を習っており、先生のお参りに来たとの事でした。大山倍達を漫画化した「空手バカ一代」や「巨人の星」や「あしたのジョー」の作者である梶原一騎のお墓もあるはずなのですが時間がなくて探せませんでした。
三条実美の立派なお墓はすくに分かりましたが、山縣有朋の墓所が分からず探し回りました。何しろ椿山荘の流れで今回視察の締めくくりとして絶対必要だと思ったからです。墓地の奥の方に大きなお墓があり、大倉財閥の大倉喜八郎の墓所でした。そしてその隣に、大隈重信に負けない大きさの立派な墓所が現れました。山縣有朋の墓所です。さらに、ここには作曲家の團伊玖磨、建築家のジョサイア・コンドル、三井の益田孝、政治家の鳩山邦夫、相撲の4代目朝潮太郎等が眠っていますが、とても探し当てる時間はありませんでした。
これで、本日の視察のすべてが終了し、地下鉄有楽町線護国寺駅にて解散の運びとなりました。
以上
文責:伊藤芳康(S51経) 写真:南 博幸(S51法)


























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