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歴史研究会11月例会上野公園歴史探索の報告

 コロナ感染もかなり減少傾向にあり11月10日(水)に久しぶりの上野公園歴史探索コースで例会を開催。当日は天候にも恵まれ特別参加で一之瀬さんも加わり12名の参加者が上野公園改札口付近に10時30分集合。

最初に企画者の伊藤さんより見学コースの説明。

伊藤さんの先導で近場の『正岡子規句碑』へ。句碑の裏にはこじんまりとした記念球場。句碑には子規が野球を愛好し俳句、短歌、随筆などにも触れて野球の普及に貢献し野球殿堂入りしたなど。普段はこの句碑に気づかず何気なく通り過ぎている。


 次に薄暗い木立の中に試験管を右手に掲げて見つめる『野口英雄像』。1歳半の時に左手に大やけどを負う。恩師・友人・家族の励ましと援助を受けその苦難を克服。左手の手術により医学のすばらしさを実感。自らも医学の道を志す。1928(昭和3)年、西アフリカのアクラ(現ガーナ共和国)で黄熱病の研究中に感染し51歳で死亡。

なぜかコロナパンデミックの現世を思い浮かぶ。


 国立博物館の近くには、黒門とも呼ばれるどっしりとした『旧因州池田屋敷表門』。表門としてはかなりの重厚さを感じる建築で国の重要文化財。それから噴水広場を通り過ぎる。上野公園の生みの親とも言えるオランダ医師の『ポードワン胸像』に。そこで伊藤さんからの説明。元々上野公園は、南は御徒町、北は鶯谷までの広大な地所は東叡山寛永寺の敷地の一部で、彼は慶応4年(1868)の上野戦争によって荒れ果て、明治新政府が病院建設を決めていた上野の山を近代的な公園にすべきと提言した人物であると。


そこから『小松宮彰仁親王銅像』へ。鳥羽・伏見の戦いでは征討大将軍に任命され、戊辰戦争では奥羽征討総督として指揮を執った人物。小道を通り高い木々に囲まれ高さ6mもある『お化け灯篭』へ。この灯篭は父が信長に左遷された佐久間信盛の従兄弟で佐久間大膳克之寄贈されたのもの。程なく両側に多くの灯篭が並び左には五重塔も見える境内を歩く。正面には金色に輝く『上野東照宮』。徳川家光が造営し、初代家康、8代吉宗、15代吉宗を祀っている。都心に来ているとは思えない空間である。


午前のコースは終了し上野精養軒で美味しいランチと会話で楽しい一時。

  午後からは少し高台にある『上野大仏』へ。関東大震災で破損し先の大戦で金属を拠出したため顔だけが。落ちるところまで落ちてこれ以上落ちないと。受験生が祈願した多くの絵馬が目につく。そばには『パゴダ』。もともとは仏舎利を納めていた建物である。日本に伝わり五重塔に変貌したとも。


 上野精養軒の横には寛永寺時代の『時の鐘』。今でも午前・午後6時と正午に撞かれる。しばらく歩くと『清水観音堂』へ。

本堂の正面を舞台造りにして、不忍池の景色を眺めら眺望。代わる代わる見て楽しむ。その下の『花園稲荷神社』と『五条大神社』で参拝。不忍池の弁天島へ。『寛永寺弁天堂』と『大黒天堂』でも参拝。

やはり元々の寛永寺敷地だけあって神社仏閣が多い。

不忍池は琵琶湖、弁天島は竹生島、寛永寺弁天堂は宝厳寺弁天堂、清水観音堂は清水寺の模倣との伊藤さんの説明あり。

 不忍池を左に見ながら歩いて行く。左隅に『下町風俗資料館』。大正時代の下町を再現した街並み。下町の生活や行事に関する資料などが展示。昔の懐かしさを感じながら屋外にでる。その場で15時に解散。


 今回は、伊藤さんが企画し上野公園歴史探索完全制覇ルートと名を打ったコースだけあって見学箇所が盛り沢山に。上野の森と言えば、動物園、美術館、博物館を思い浮かぶが、上野公園の見方を変える歴史探索となる。


                      文責&写真:南 博幸(S51法)

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