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慶應義塾体育会創立百二十五年記念式典に参列して(2017/04/23)


 明治20年、水泳部;21年、野球部 それぞれの前身であるクラブ組織が活動を始め、同25年に慶應義塾体育会が創設され(会長福沢捨次郎)以後125年を経過し、現在35の運動部が活動している。

 その間慶応義塾は日本におけるアマチュアスポーツのリーダー的存在として時代をリードし、その活動に貢献してきた。

 伝統の慶早戦は野球をメインとして、各部にわたり重厚な対抗戦イベントとして育まれてきた。また4年ごとのオリンピック大会にも、128名の選手(戦後77名)を送り日本代表として健闘した。

そして数多くの選手たちがそれぞれの部門において、日々過酷な練習に励み、激烈な対外試合を戦い、塾の名誉を築いてきたのである。

この実績を背景とした125年を祝う式典が本日4月23日に日吉記念館にて行われた。

塾歌斉唱、塾長祝辞、さらに文部科学省大臣の祝辞後、ロンドン、リオのパラリンピック高桑早生選手の記念講演があり、それは体育会OB列席者の胸を打つものであった。

彼女は中学校1年生のとき骨肉腫にかかり左足を切断した。運動が大好きであったこともあり、その絶望感はひとしおであったが、リハビリで義足をつけ、努力して運動をすることで、テニスができるようになり希望がわいた。しかし高校ではやはり横へ動く運動に限界があったので、陸上に転向し一段と記録が伸びた。

 大学は塾に進学し競走部に所属、一般部員として精進し、短距離走と走り幅跳びのパラ代表として日本代表のユ二フォームを着るまでになった。

その時何よりもうれしかったのは慶応競走部の仲間たちがごく普通の一般選手として当たり前に接してくれたことであり、ハンデを意識せず楽しく部活動を過ごせたことだった。通常の選手として一緒に苦しい練習を乗り越え、ともに試合に臨み、喜びも悲しみも同時に味わったことが、計り知れない励ましとして、今自分の体に染みついている。

2回にわたりパラリンピックに選抜された幸運は、何よりも慶應義塾の持つ広い受け皿と暖かい交流のたまものであり、心から感謝しています。と小柄な体から終始笑顔を絶やさず淡々と語ることばは、会場の先輩たちが自分の過去のつらい練習を重ね合わせても及びもつかない重い悲しみを実感させるものであり、その中から立ち上がった彼女の姿が可憐かつ健気なものとして、心に染み入るような共感をもって聴きいった。

私自身、ややもすればメダル獲得第一主義となる商業的スポーツに走りがちなスポーツ界で、ただひたすら自分の目的に向かう純粋なアマスポーツの神髄を見た気持ちが見え感激ひとしおであり、長く心に残ると思う。

式後日吉会館で懇親会があり各部別のテーブルで世代を超えたOBたちの交流歓談が繰り広げられ、懐旧談に花が咲いた。

最後は恒例の慶応賛歌、若き血の斉唱をもって散会となった。

平成29年4月26日 山本 健 記


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