所沢三田会 歴史研究会7月例会の報告
- 8月10日
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去る7月28日(火)、新所沢コミュニティセンターの学習室において、伊藤芳康氏(S51経)による講座が開催され、14名の会員が参加しました。
当日は、伊藤氏による講座を通じて、興味深いお話を伺うことができ、参加者にとって大変有意義な時間となりました。

このたび、伊藤氏に当日の講座内容を分かりやすくまとめていただきましたので、以下にその概要をご紹介いたします。
国境を越えた 二つの純愛物語がもたらした 二つの特産品 |
時は大正時代初期と明治時代初期、二つの純愛には驚愕の共通点が三つありました。1つ目はジェッシー・ロベルタ・カウン(通称リタ)と竹鶴政孝並びにジェニー・イーディーと川田龍吉という“スコットランド人女性”と“日本人男性”のカップルである事。2つ目は日本人男性が共にスコットランドの“グラスゴー大学に留学”した事。3つ目は共に“純粋な愛の物語”だったが故に「ウイスキー」と「男爵イモ」という特産品をもたらしたのです。
竹鶴政孝&リタ・カウン 川田龍吉&ジェニー・イーディー
竹鶴政孝&リタ・カウン 川田龍吉&ジェニー・イーディー
しかしこの純愛には衝撃的な相違がありました。ウイスキーは竹鶴さんとリタさんの“純愛が成就した”ために日本にもたらされました。一方で、男爵イモは川田さんとジェニーさんの“純愛が成就しなかった”ために日本にもたらされたのです。
時は第一次世界大戦最中の1916年(大正5年)、広島にある老舗日本酒醸造所の御曹司である竹鶴さんは国産のウイスキーを製造するという夢を抱いて、スコットランドのグラスゴー大学に留学し醸造蒸留学を学びます。4年間の留学中に、地元の裕福な医者を父に持つ四人兄弟の長女である美しく凛々しいリタさんと熱烈なる恋に落ちます。二人は結婚して日本へ行くという希望にリタさんの家族は大反対します。結局リタさんは愛を貫き、親兄弟と生き別れ状態で家族を捨て、母国を捨て、1920年(大正9年)に竹鶴さんと結婚して共に帰国します。
帰国後、竹鶴さんは鳥居信治郎社長の要請で寿屋(現サントリー)に入社しまし た。そして、当時存在した風光明媚な周囲16㎞の巨椋池(東京ドームの171倍)の畔にある京都南部の山崎にてウイスキー製造工場を起ち上げ、日本初の国産ウイスキーを製造販売しました。14年後の1934年(昭和9年)、大日本帝国政府は食糧増産のために巨椋池を埋め立ててしまうことになりました。巨椋池の消失と共に竹鶴さんは後継者に事後を任せて、満を持して寿屋を退職しました。そしてリタさんと共に気候風土がスコットランドとそっくりそのままの北海道余市に移住し、退職金を元手に念願の本物のウイスキー造りを始めました。
在りし日の京都 巨椋池 スコットランドのような北海道 余市
製造販売までに5~6年という熟成期間を要するウイスキーが市場に出るまでの蒸留所のランニングコストと生活費をまかなう為、余市周辺の果樹園から売り物にならないリンゴを安く仕入れてリンゴジュースを作り販売しました。その為に設立した会社が「大日本果汁株式会社」です。この社名の「日」と「果」から「ニッカ」という名称が生まれました。竹鶴さんはリタさんのサポートを得てウイスキーの製造生産一貫の蒸留所を作り上げ、1940年(昭和15年)に第一号ニッカウヰスキーを発売します。
ニッカリンゴジュース 第一号ニッカウヰスキー
リタさんと竹鶴さんは余市でスコットランド風の家に住み、スコットランド風の生活を大いにエンジョイし、毎日3時にはアフタヌーンティーを満喫しました。また、リタさんは教会や幼稚園を作り地域に貢献します。そして、とてもうれしいことが1959年(昭和34年)にありました。この年、最愛の妹であるルーシーさんがスコットランドから余市まで来られ、約40年ぶりの涙の再会を果たしました。
最愛の妹が帰国して2年後の1961年(昭和36年)、65歳を迎えたリタさんは誠に残念ながら結核にて静かに一生を終えます。結局、母国を離れて41年、一度も帰国せずに竹鶴さんを支え続けました。竹鶴さんはもう少し長生きして、1979年(昭和54年)に85歳にて永眠します。そして、夫婦はそろって大好きな余市の丘にて永遠の眠りについています。
竹鶴さんよりさらに40数年ほど遡る明治初頭、日本は島国として先輩のイギリスを手本に海を最重要に位置づけます。そして資源確保の貿易を推進するために、及び、欧米の植民地政策から防衛するために、「富国強兵」をスローガンに掲げます。必然的に貿易に注力する共に海軍の強化に乗り出していきます。その為には国産にて商船や軍艦を製造すること、つまり造船が必須となります。
幕末の土佐に生まれた川田龍吉は慶應義塾大学を卒業後、三菱商会のスポンサーの下、土佐閥及び設立間もない海軍や日本政府の期待を一身に背負い、江藤新平による佐賀の乱が勃発した1874年(明治7年)にスコットランドのグラスゴー大学へ留学しました。同大学にて、造船技術と船舶機械技術を7年間にわたり学び習得しました。その間、8歳年下の19歳である美しく可愛いジェニー・イーディーさんと熱烈なる恋に落ちてしまいます。
相思相愛はそのまま自然に結婚に進むはずでしたが、日本政府の期待を担った川田さんはどうしても帰国しなければならないと思いました。武家として育ち、責任ある立場にいると考える川田さんは一人の女性のために祖国を捨ててスコットランドに残るという選択肢を想定できなかったのではないかと思います。
一方で、ジェニーさんは母親一人子一人のあまり裕福ではない家庭環境に育ちました。このような背景から、川田さんと結婚して未開の地と思われていた日本へ行くという判断はできませんでした。とてもたった一人の年老いた母親を残したまま生き別れになることができなかったのです。よって、最終的には帰国する川田さんとの悲しい悲痛な別れをします。
川田さんは引き裂かれるように傷心の帰国をしました。帰国後、三菱造船の基礎を作り、大日本帝国(1889~1947年)の造船の基盤を作り上げます。川田さんの父親である川田小一郎は同じ土佐閥の岩崎弥太郎と共に三菱商会起ち上げに参画し、一大財閥に発展させます。その手腕が薩摩閥の重鎮である松方正義総理大臣に買われて1889年(明治22年)日本銀行第三代総裁となります。そして小一郎は「日銀の法王」と恐れられるようになり、男爵の爵位を授かりました。その後、小一郎が61歳で逝去すると、龍吉さんが爵位を継承して「川田男爵」となりました。
時は流れ、造船大手の函館ドックが日露戦争後の不況から経営不振に陥ったため、渋沢栄一は三菱商会総帥の岩崎久弥に助けを求めます。久弥は要請を受け入れ、川田男爵に函館ドックの再建を要請します。1906年(明治39年)、川田男爵は要請を受け入れ函館に移住しました。
函館に来て驚愕したのは、気候風土があまりにもスコットランドにそっくりそのままだったことです。空気から気候や景観まで、あまりにすべてがスコットランド風だったので、自然のなりゆきで愛したジェニーさんを思い出してしまい、胸を痛めてしまいました。切ない気持ちは膨れ上がりました。
川田龍吉男爵 函館郊外 スコットランドそっくり
そして、ジェニーさんと一緒に食べた大好きだったじゃがいも料理を思い出してしまい、どうしても食べたくなりました。その為、スコットランド生活を再現したくなった川田男爵は函館近郊に9haの農場を購入して、函館ドック再建の合間にじゃがいも栽培を始めました。一生懸命ジェニーさんと一緒に食したじゃがいもを探し求め、色々な品種を試しましたが、なかなか見つからないのです。函館が国際港であることが幸いし、イギリス船から種芋を仕入れ、試行錯誤を繰り返しました。数年後にやっとアイリッシュカブラーという品種にたどり着きます。まさにアイリッシュカブラーこそがジェニーさんとの思い出そのものだったのです。晩年は農場で採れるアイリッシュカブラーでじゃがいも料理を作りながら一人ジェニーさんを懐かしみました。
アイリッシュカブラーが豊作だったので、近隣の農家にもお裾分けしました。そうしたら、そのじゃがいもがホクホクとしていてとても美味しいので、みんなが川田男爵から種芋をもらって栽培するようになりました。そして、農家の人々はもらって栽培したじゃがいもを正式名称のアイリッシュカブラーとは言わず「男爵さんからもらったおイモ」と呼びました。それが「男爵さんのおイモ」と縮まり、更に単に「男爵イモ」と呼ばれるようになりました。
川田男爵はじゃがいも料理を食べながらジェニーさんをしのび、この地で94歳まで長寿を全うし1951年2月(昭和26年)に永眠しました。江戸時代の1856年4月(安政3年)に生誕し昭和まで駆け抜けた川田男爵は、前半生の造船技術屋であり実業家というより、後半生の農業家として歴史に刻まれています。そして塾員の大先輩であることも忘れずに記します。
竹鶴さんとリタさんの純愛は有名でNHKの朝ドラでも取り上げられました。一方の川田男爵とジェニーさんの純愛は最近まで誰も知りませんでした。川田男爵はジェニーさんとの恋を胸の内に秘めておられたので、平成16年(2004年)に函館郊外の金庫の中から89通ものジェニーさんからのラブレターが発見されるまで誰も知りませんでした。このラブレターの発見で、この引き裂かれた悲痛な恋愛が初めて世に知れ渡ったのでした。
このように二つの純愛なくして二つの特産品は今日のような形でもたらされなかったではないかと思います。
文責:伊藤芳康(S51経)














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